主のご降誕おめでとうございます。
コロナ禍により、降誕祭ミサは非公開で行われました。
例年では、クリスマスのお祝いに多くの方々が詰めかけるのですが、
感染防止のため限られた人数によるミサ司式となりました。
『12月24日 クリスマスのメッセージ
松村 繁彦
主の御降誕おめでとうございます。
今年はコロナ一色の約1年で、その対策と制限と忍耐の中で私たちは生活してきました。それはある意味伝染病の下で恐怖の奴隷と余儀なくされた私たちでした。そして今なお、最前線で戦っておられる方がたくさんいます。特に医療従事者の方々に感謝と尊敬をもって、多くの方々のいのちが守られ、全ての人に希望が与えられるよう祈りをささげてまいりましょう。
さて、イザヤの言葉では、古代オリエントの時代にエルサレムに近隣の王たちは自分たちにとって都合の良い王を立てようと働きかけた。しかしイザヤは神からのお告げにより、王は必ず神から与えられると信じ、その王たちの行いに断固として神を信じ待つよう促した。たとえ闇であっても光を見る時が必ず来る。それがダビデ王の座が引き継がれる希望と期待であった。これが“闇に住む民は光を見た・・・。”そして“ひとりのみどり子が私たちのために生まれた。”と伝えられた。この者は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と称えられると語る。そのことを信じるかどうかをイザヤは現代の私たちにも預言として託されている。大事なことは、たとえ私たちが信仰深くても浅いと思っていても、周りに希望の光を届けたいと思うか、闇のままでいいと思うかにかかっている。神の絶対的な御ちからは、闇に住む民であっても光を示し、照らし続ける驚く業である。懐中電灯のように電池が切れたら終わり、蝋燭のように火が消えたら終わりではない。そこに導き永遠に輝き続ける力を持っている方である。その力を伝えなければならない人々が私たちの周りにいる事を理解し、一人でも多くの人を救いに導きたいと願うことが求められている。私自身の信仰の評価次第ではなく、幼子に秘められた救いの力に委ねる心があればいい。限りある力ではなく、限りない輝き、希望と愛に照らされる事を切に願っていきたい。
今日の主の御降誕は特に具体的に愛と希望を示すために、今日イエス・キリストは私たちの世界に降り立った出来事を祝う日。見えない恵みが見えるしるしとなった。これは全ての秘跡に先立った根本的な秘跡そのものである。
私たちも神の具体的かつ実践的な示しそのものであるイエス・キリストの誕生から、コロナ禍であっても、私たちに愛と希望、光と平和をもたらすよう言動ができるよう恵みを求め、一人でも多くの命がこれからも救われるよう、最前線で働いておられる方のためにも配慮と祈りをしてまいりましょう。』