2019年2月10日日曜日

年間第5主日

今日朗読されたルカ5・1-11では、「イエスの思い・呼びかけ」によって従う者となった弟子達の姿が語られました。


札幌教区の司祭異動(5月1日付)が発表されました。
それぞれの地区・小教区での新しい”歩み”が始まります。
神様の導き・恵みを祈りましょう。

ミサの後、恒例の「雪割り(排雪作業)」を行いました。
今年は雪もそれほど多くなく、青空の下、ほどよい汗を流しました。


この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」と今日の福音は語られます。わたしたちもクリスチャンとして信仰を持ち、「神のことばを聞こう」として教会に集いますが、わたしたちの信仰は、どうなのでしょうか?

湖畔に立つイエスは漁を終え、岸に上がって網を洗う漁師の仕事ぶりを眺めています。大勢の群衆が自分の回りに集まってくるの見ながら、舟に乗り岸から少し離れて、イエスは教えを群衆に述べられるのです。 神のことばを聞くということは、「神のみことばとして」受け入れることです。みなさんは、今もキリストが教会をとおして神のみことばを宣べ続けている全世界の人々中の一人であり、今日もイエスのことばを聴いているのです。
 「漁師が夜通し働いても漁がなかったが、キリストの言葉に従って網をおろすと網が裂けるほどの大漁であった」と言うことは、宣教も使徒職活動も キリストのみことばに従がうこと、そして、キリストと一致して働くことで効果があるということを象徴する話ではないでしょうか。
漁師のペトロにとっては、まさに奇跡のようですが、キリストにとってはみことばに従って働き続ける教会の未来を示唆する、預言的しるしでもあるようです。このすべてを見た漁師はペトロの他にヤコブとヨハネもいて、神のしるしを見て圧倒された三人はイエスに従うことになりました。

また、イエスは不思議なしるしを行ない病気さえ治してしまう方なのです。今日読まれたルカ福音書の前章では、高熱で苦しんでいたペトロの姑(しゅうとめ)を治した話がありました。この時、ペトロはすでにイエスという人物に深く関わっていることになります。
 ペトロはイエスに出会い、イエスに惚れ込み、イエスに従う者となったようですが、”招かれて”従うことになったのです。
「召しだし・出家」には、本人の熱意から決心する場合もあるでしょう。しかし、ペトロは「自分の思い」からではなく、「イエスの思い・呼びかけ」によって従う者となったのです。自分の熱心さからだけでは、召し出しは続くものではないとよく言われることです。私の神学生時代のある先輩は、家族が皆、熱心なクリスチャンで特に祖母の強い勧めもあり司祭の道を志したのですが、祖母の帰天をきっかけに改めて自分自身に問い掛け直し、神学校を去ったのでした。

ペトロは神の力の偉大さをつぶさに見て、イエスの足元にひれ伏しました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白しました。わたしたちの力だけでは出来ないことをするのが神の業なのです。
イエスのもとにとどまる信仰者であるためには、いつ変わるかも知れない自分の気持ちを拠り所とした信仰ではなく、確かな信仰を持つためにも、何があっても変わることのないイエスの恵みを拠り所としなければなりません。自分の気持ちでイエスを信じる者ではなく、イエスの恵みによって 捕らえられた者になること、その信仰が必要なようです。

札幌教区の司祭の異動が発表されました。また、新たな土地、環境で働くことになります。旅する教会のように、ひと所にとどまっていることもならず、生きている限り、呼ばれるまで、また歩きはじめなくてはなりません。 人を漁る(すなどる)仕事でもあるわたしたち司祭の仕事ですが、矛盾を感じるような時でも、また、困難に思える時があっても、イエスとともに働くことで、豊かな実を結ぶことができると信じ、これからも進みたいものです。息切れがしてしまうようなこの頃でもありますが、生きていることを感謝し、一歩一歩、地を踏みしめて、歩いていかなくてはとも思います。

今日のみことばの最後には、 ペトロはイエスに招かれて「すべてを捨ててイエスに従った」と結んでいます。 このことばを心に留め、今日も、みなさんとともに新たな出発がありますようにと祈ります。』