2019年2月17日日曜日

年間第6主日

「心の貧しい人、その人たちは幸いである」
イエスの差し伸べてくる愛のまなざし、愛の手を深く感じとる心を大切にしたいと思います。


今日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『今日のみ言葉は、ルカの福音書と共観福音書のマタイ福音書にみられる同じ出来事が語られる場面ですが、ルカとマタイの福音を比較すると興味深いものがあります。ルカの福音では、弟子たちと共に山に退いていたイエスが、民の群れに教えるために山から下りて「平らなところに立って教えた」という下りになります。逆に、マタイの福音は、群衆から逃げて弟子たちと一緒に山に退き、弟子たちに語られた話しとして「山上の垂訓」になっているからです。同じような内容のお話ですが、山で語られるイエスと、民衆の近く平らなところで語られるイエスと、極端に違うイエスの姿を感じてしまいます。どういう理由だったのでしょうか。黙想の材料にもなります。
 ルカの福音によるとイエスは山に行って夜通し祈り、弟子たちを呼び寄せて中核となる12人の使徒を選びます。イエスによる12人の弟子の選びによって、新しい神のイスラエル、神の国の形成の意図があったかも知れません。そして、彼らと一緒に 山を下りて、平らなところに立ってイエスの教えを聞こうとして集まって来た群衆に語られたのです。ルカ版とも言える「平地の説教」は、マタイでは「山上の説教」となっています。マタイではイエスの教えの頂点として3章にわたり書かれています。でも、ルカの記述は、わずかに30節です。ルカは、すでにここに至る前の4章でイエスがナザレを訪問をしていました。貧しい人に福音が伝えられる時機が満ちたということで、福音宣教に出かける、そういう記述になります。イエスの話を聴いて感動した人々は、次から次へとイエスの周りに集まりました。特に貧しい人々が押し寄せています。

 今日の福音でも「貧しい人は幸いである」という言葉がありました。貧しい人とは、まず第一にイエスが「あなたがた心の貧しい人たち」という言葉になっています。貧しい人、それは聖書では心の状態を言うのです。次に「教えを聞こうとしてイエスのもとに来た群衆」、「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞いて行う人」たちに代表されるイエスのメッセージ。それは、当時のキリスト者ではありますが、現代のわたしたちにも繋がってくるものです。
 ルカはキリストのみ言葉をとおして、貧しい人、迫害に苦しむ人々に対して地上的富や喜びが、われわれに救いをもたらすものではないことを強調して書かれます。ここにルカの、特に貧しい人たちに心を配り、貧しい人を幸いなるもののトップにあげて語るイエスの救いを伝えるのです。「金持ちが神の国にはいるのは難しい」と言われるように、富んでいる人を不幸なものの頂点にあげています。飢えている人、泣いている人は貧しい人のグループに入りますが、逆に、「今、満腹している人」、「今、笑っている人」は、みな富んでいる人のグループとしています。
 さらにいま、飢えている人、今泣き悲しんでいても、イエスによる救いが実現するときには、状況は完全に逆転すると伝えています。キリストは「権力あるものをその座から引きおろし、卑しい者を引き上げる」からです。ルカは、当時の社会背景に、貧しさや飢えに苦しむ人がいかに多くいたことや、また、富める人や権力ある人に迫害されていた人を背景に置いて福音書を書かれたように思います。

  私たちが聖書を見るときに、聖書を書いた福音記者の意図も少し考慮して読むと、深い味わいがあります。特にイエスの時代、その迫害の時代、苦しむ人飢え乾く人も含めて、社会が混乱した中で書かれたことを念頭に入れて置く必要があると思います。誰しも貧しさや飢え、迫害を好む人はいません。それらの苦悩を、救いの喜びを得るための手段として奨めています。そして福音の喜びは、資格のない者が資格のある者とされるところになる、そういうところのようです。
 ユダヤの国では貧しい人々は、少なくとも神から祝福を受けた人々とは見なされませんでした。彼らは神の国から遠い存在であったのです。しかし、イエスの福音はそういう人たちに慰めを与え、満ち足らせるのです。神が資格のない者を救うために、イエス・キリストをこの世に送ってくださったがゆえに、貧しい人たちが幸いなのです。逆になぜ、喜んでいる者、満腹している者が災いとなるのでしょうか。それは、イエスを受け入れない人々、福音に耳を傾けようとしない人々、み言葉を聞かず、神の恵みに預かることが出来ない人々。それは現実にこの世的に満足してしまって、自分たちの幸いだけを考えてしまう人々と受け止めてしまいます。富自体が悪いわけではない。
 イエスの言葉を聞きたいと集まった群衆にとって、約束の救い主が来たと喜びます。イエスと共にあることが幸せでした。ますます、イエスの近くに行きたいと願います。イエスに触れようとする人々も出てくるくらいです。先日の福音でのパンの奇跡の話は、イエスが三日も自分といっしょに過ごしてついて来た群衆が、何も食べずに空腹であることに気づかい、「パンの奇跡」を行ったと紹介されていました。

 今、みことばに耳を傾けるわたしたちは、どんな幸せを持っているでしょうか。私たちの熱心さはどこに向かっているのでしょうか。日常の生活では、悩みも苦しみもあるわたしたちです。心貧しく生きている私たちではないでしょうか。見かけはそのようにないと言っても、心の中では誰でも悩みや苦しみを持っているはずです。今飢えている、今泣いているとは、現実に社会の底辺におしつぶされている人々と受け取っても良いはずです。私たちもそういう一人であるはずです。
 わたしたちは、貧しさや苦悩のうちに、見捨てられ、押しつぶされているその時、神が心配し、手を差し伸べ、救おうとされていることを感じとりたいものです。そして、救いへの道、希望を見つめ、真の幸福への道を見出すべきではないでしょうか。心の貧しい人、その人たちは幸いである。イエスの差し伸べてくる愛のまなざし、愛の手を深く感じとる心を大切にしたいと思います。』