2019年2月24日日曜日

年間第7主日

敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい(ルカ6・27より)
今日のルカ福音書では、「キリストの愛」が語られました。
キリストが求める愛は、愛してくれる人を愛する、よくしてくれる人に善いことをする愛ではありません。


今日のミサは、3月21日に司祭叙階式を控えている簑島助祭が共同司式され、春休みで帰省中の千葉神学生が侍者と聖体奉仕をされました。派遣の祝福前に、お二人から簡単なご挨拶がありました。



この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『昨日は、札幌地区宣教司牧評議会主催で、信徒の交流会が行われていました。私も参加しましたが、約140名の信徒、修道者、司祭が参加していました。司教様のお話が1時間ちょっとあって、その後、小グループに分かれて分かち合いがありました。「信徒中心の教会」が大きなテーマになっていました。札幌教区の新しい宣教司牧のありというのも背景にあると思います。私の参加したグループでも分かち合いをしましたが、教区のこれからの方向などを意識した発言が多くありました。1人の信徒の方が、信徒中心という言葉から、「私たちの教会には外国の人や未信者の人も来ているのですが、信徒中心というのはそういう人は入るのでしょうか。」という素朴な疑問も出て、分かち合いが進められていきました。皆さんは、司教様が年頭書簡で毎年のように「信徒中心の教会」ということを書かれているのをご存じでしょう。「信徒中心の教会」…どんなふうに考えていますか。私たちの教会は「信徒中心の教会」なのでしょうか。これに対応するのが「司祭中心の教会」でしょうか。信徒中心だけであっても困るでしょうし、司祭中心だけであっても困ります。
  司教様が話される「信徒中心の教会」という背景には、信徒一人一人がキリスト信者として委ねられた使命をまっとうしているかどうか問われている、「信徒中心の教会」になりましようということだと考えています。それは、過去に信仰についても信仰生活についても神父に頼り切るような信仰があったのではと感じます。信徒一人一人が自分の信仰をダイナミックに力強く生きることの方が大切だという背景があって、司教様は話されているような気がします。グループの中の一人が信徒中心と言ったとき、教会に来て勉強している未信者人の人が入る入らないか、それは私たち一人ひとり信者としての相応しいあり方を感じたとき、そういう人を排除してはいけない、そういう人を含めて私たちの教会と言うのではないですかと、おおかたグループの中の話し合いになっていました。きっと、皆さんもそのような考えと思います。
  教会に集められた一人ひとり、洗礼を受けていようといまいと、私たちの教会を作っていくのが大切だと、基本的にみなさんもそういうことを考えると思うのです。話し合いをし、分かち合いをし、ひとつの言葉から出てくる様々な考え方を共有しながら、もっと豊に私たちの教会共同体を作っていかなければと、そういう(交流会の)分かち合いの場でもあったと思います。
 新しい(司祭)異動にともなって、わたしたちの教会がもっともっと、主のみ心にかなった教会共同体づくりをしていかなければと、私たち誰にでもあると思います。皆さんの心をひとつにして、私たちの信仰が一人ひとり豊に生きられる教会、そして人とのつながりを作っていける教会を、皆さんといっしょに祈りながら進めていければと思います。

さて、『コロサイ書』には「愛する医者ルカ」(4.14)とあり、ここから福音書記者ルカの職業は伝統的に医者であると信じられてきました。また、画才・ 絵の才能もあり、初めて聖母マリアを描いたとの伝承もあり、画家の保護の 聖人でもあるといわれています。先週も話しましたが、ルカは、貧しい人とか、虐げられている人、弱い人、異邦人に対して非常に好意的なようであったようです。先週の「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」は、神から祝福を得られないといわれてきた貧しい人たちにとって、まさに福音でもありました。
 先週に引き続いて語られている今日のイエスのみことばは、あまりにも立派で恐れ入ってしまいます。「敵を愛しなさい」とか「憎しみを持っている人に親切にしなさい」それだけでも、 圧倒されて、何も言えないくらいなのに、さらに続いて、裁くな、ゆるしなさい、与えなさいと続いて話されます。
 道徳の教科書を見る思いでもありますが、わたしたちの日常生活でそれを守ることはいかに難しいことか。これらはイエスの新しい律法ともいわれていますが、なかなかわたしたちには出来ないことでしょう。わたしたちが信じる神は、わたしたちの敵も、憎む人をも愛しているということが真底わかり、その人たちのためにイエスが十字架に上られたと思う時、「わたしは出来ません」とは言えなくなってくるのです。そのことを心の底で思い知らなければと考えるばかりなのです。イエスの力、聖霊の恵みをいただかなければ、到底出来ることではありません。

 憎しみの連鎖を断ち切るためには、「目には目を、歯には歯を」という人間の心の中から湧き上がる感情を押さえ、越えなければならないのです。わたしたちが許せない、憎いと思う人のためにも死んでくださったというキリストの愛の論理が、わたしたちを招いているのです。しかし、人をゆるすことも、愛することもできずにいる自分は、自分に特別に関係する人だけを愛することに満足しているようでもあり、神の望みに応えることなく信仰者になりすましているようで、どんなに罪深い者かと感じるのです。
 イエスがペトロに「網を降ろしなさい」といった時、ペトロは心の中で(そんなことをしても無駄です)と少しの疑いを持ち、そのことをペトロはイエスの側にいることさえも恥ずかしく思い、「わたしから離れてください」と罪を告白しました。 失敗を繰り返すペトロが、いかに純粋な信仰を持つ人であり、魅力ある人間であることかと感じ入るばかりです。

 キリストが求める愛は、愛してくれる人を愛する、よくしてくれる人に善いことをする愛ではありません。「憎む者に善を行う」という敵さえも愛し、悪に対しても積極的に善を施すキリスト教的な愛なのであり、それは、十字架を背負うという自己犠牲を伴う愛なのです。
 キリストは神の国に入る条件として、神への愛と隣人への愛を説かれています。自分の秤で人を量ることなく、「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」という教えを忘れることなく、わたしたちの心の中にどんな時にもとどまるように、今日のミサをとおして祈りましょう。』