2019年11月10日日曜日

年間第32主日

ルカ 20・27-38

復活を否定しようとモーセ五書を引き合いに出し、言葉尻を捉えようと質問をしたサドカイ派に対して、イエスははっきりと復活を肯定しました。


森田神父様のお説教の一部をご紹介します。

『この日の福音朗読は復活についての問答です。
今回の質問者はサドカイ派の人たちでした。復活を否定するためにモーセ五書を引き合いに出し、イエス様の言葉尻を捉えようと質問をしたのです。
しかし、イエス様は「そんなことではない」と一蹴されます。
サドカイ派の人は、一生懸命知恵を巡らせて律法の知識を動員して、理論を詰めていくわけですが、イエス様の理論とは「格」が違うのでした。イエス様は、彼らと同じ次元で答えるのではなく、ご自分が知っている天の国では人は復活するのだと、復活をはっきりと肯定なさったわけです。
旧約聖書には、復活の箇所ははっきりとは書かれていません。イエス様になって初めて「復活」をはっきりと示されました。
旧約聖書のユダヤ人であれば誰もが知っている「柴」の箇所を挙げて、「神は生きている者の神である。だから、我々は死んでも生きる」と、イエス様はここではっきりと仰っているわけです。

この世で夫であり妻であった契というのは非常に大事なもので、永遠のいのちにあっては、特別な形できっと続くのだと思います。そして同時に、私たちは天の住人の他の全ての人と、大変親しい関わりがあり、お互いにお互いの幸せを望み、相手の幸せがそのまま自分の幸せになると、ある神学者は言っています。ですから、100人の住人がいれば、一人一人の喜びは100人分の喜びである。100万人の天の住人がいれば、一人一人の幸いは100万人幸いになるわけです。神様は、私たちのために考えられないような準備をなさっておられます。

天国から見たこの世については、いろいろな教会の歴史の中で様々な聖人が語っています。
ある人は、「煉獄の霊魂たちは、もし30分だけ地上に戻れるとしたら、多分煉獄は空っぽになるであろう」と言っています。それほど、煉獄から見たこの世というのは、もっと素晴らしい生き方をしていれば良かった、と思うようなところだと思います。

天国は、幸いに包まれ、何の悲しみも不幸もないところだけれど、主イエスが天から世に降りて来られた30年間の功徳ほど素晴らしいものはない。天国にいると、イエス様の地上での功徳や、十字架での業に与ることができない。この世にいる人だけが与ることができる。だから、苦しみに満ちたこの世での短い期間の功徳というものは、天国で得られるものとは比べものにならないほど大きいといわれます。』


ミサの後、秋の大掃除を行いました。
聖堂の床磨きをメインに作業しました。