典礼暦では年間最後の主日を迎えています。
今日は「王であるキリスト」の祭日です。
「王であるキリスト」とは、この世の王とは違い、自分を犠牲にして人々を救い、憐れみをもって赦しを与えてくださる方です。
この日の午後、教皇フランシスコの長崎でのミサを、70名の方がカテドラルホールで視聴しました。
佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『 年間の最後の主日にあたる今日、わたしたちは「王であるキリスト」を祝います。
「王」と言われてもピンと来ないかもしれません。 覇権争いの中で「王」という者が現れては消えていきました。 権力をもってその地を統治する者が地上の王であるとすると、イエスはどういう意味で王なのかということが疑問となります。
ルカ福音書では一緒に十字架につけられた犯罪人たちのうちの一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言っています。 マルコやマタイ福音書でも二人の強盗たちが一緒に十字架につけられますが、どちらもイエスをののしったとあります。 回心する犯罪人を登場させるところに、苦しむ救い主とすべての人々に対する神のあわれみを記しているルカの特徴が表れています。
この犯罪人は自分もイエスもこの十字架上で死ぬことはわかってます。 この世での命が終わることが分かっています。 そして、「あなたの御国においでになるときには」と言っていることからイエスの王国が死を越えて実現するということを信じていると考えられます。 そこで「わたしを思い出してください」と願っています。 これはわたしたちの信仰の中心ではないでしょうか。 この犯罪人の姿こそがわたしたちキリストを信じる者の姿なのだということです。
わたしたちはみな各自それぞれ自分の十字架を背負って生きています。 その中でもがき苦しんで生きています。 人生の最後に至るまで「イエスよ、共にいてください」と願うことが大切なことだと今日の福音は教えているのです。
イエスの返事ははっきりしています。 「はっきり言っておく」という言葉をよく目にしますが、これは「この世の人々はこうであると言っているが、わたしは違うとはっきり言っておく」ということです。 みんなはそうは思わないだろうがわたしは次のようにはっきり言うということです。
「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスは断言されました。 楽園とは、神と人とが共に暮らすところであり、人と人とが調和に満ちた世界だと言ってもいいでしょう。 創世記2章に描かれるエデンの園がまさしく楽園です。 エデンの園に神がアダムを連れてきてそこに住まわせ、そこを耕し守るようにされました。 そして女であるエバを一緒に住まわせました。 神と人々が一緒に暮らすところが楽園というわけです。 しかもそこにいるのが「今日」なのです。
「今日あなたはこの世の生を終えるが、すぐにわたしとともに楽園にいる」ということをイエスは言っているのです。 素晴らしい励ましの言葉です。 わたしたちの祈りがどうあればいいのかがここに示されていると思います。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
イエスに願い求めると同時にわたしたちがしなければならないことがあります。 それはその前の言葉です。もう一人の犯罪人が議員たちや兵士たちと同じ言葉を放った後です。
「メシアなら自分自身と我々を救ってみろ。」 この言葉に対して、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」ともう一人の犯罪人は弁護しました。
わたしたちキリスト者が神にゆるしを願うと同時に、神への信仰を証しすることが求められるということを表しています。
王であるキリストとは、自分を犠牲にして人々を救い、あわれみをもってゆるしを与えてくださる方を表しています。 自分を守るために君臨している地上の王とは違うお方です。 この回心した犯罪人のようにイエスを証しし、イエスが共にいてくださるように願いながら、王であるキリストをたたえてこの祭儀を続けてまいりましょう。』