弟子たちが聖霊によって勇気づけられたように、私たちのうえにも聖霊の恵みがありますよう謙虚に清い心で神に感謝し祈りを捧げましょう。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
今日の聖霊降臨を毎年私たちはお祝いしますが、聖霊に対する理解は簡単なものではないと思います。イエスは最後の晩さんの時に、弟子たちに語っていました。約束していた聖霊は、弟子たちに遣わされることが既に弟子たちに話されていました。その具体的な出来事は今日の第一朗読である使徒言行録の中で語られました。
霊は目には見えないものですが、私たちはその”しるし”をいろいろなところで見たり聞いたりしているような気がします。時に自然の中で、音を聞いたり風を感じたりするなかに聖霊を意識する人もたくさんいるのかもしれません。聖書の中では「突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえた」というような表現で聖霊降臨の出来事が始まります。聖霊は、聖書の様々な箇所でいろいろな言葉で表現されています。息吹や風を意味するとも言われています。また、聖霊には聖なる命や聖なる力をもたらすイメージがあります。旧約聖書の創世記の中では、天地創造をされた神が土で人を形作られました。そして、神が息を吹きかけると命がそこから始まったと表現されています。霊は私たちの命に関わっていることを表しています。旧約のイスラエルの民は、神が全てであるという信仰をずっと生き続けています。民を救い、守り、苦しみから解放し導いてくださる、それは神そのものである、その神を信じ教えを守りイスラエルの民は信仰の歴史を歩んでいます。どんなに感謝しても感謝しきれない恵みを与えられてきた、そのような意識がイスラエルの民にはありました。旧約聖書におけるイスラエルの民の神への感謝は、祭りの中で大変重要な意味を持っていました。祭りと密接につながった信仰の民、それがイスラエルの民でもあります。祭りの中でも、過ぎ越し祭、仮庵の祭り(かりいおのまつり)、そして今日出てくる五旬祭の祭りは、三大祭りとしてイスラエルの民の信仰と最も密接に結ばれているものです。イスラエルの民は、この祭りの時には神殿にお参りすることが義務となっていました。
聖霊降臨は、この三大祭りの中の五旬祭と深くつながっています。五旬祭はギリシャ語でペンテコステといわれ、50日間という意味を持っています。これは現代の典礼における復活節の50日間と深くつながって今日に至っています。その50日が今日で終わるということです。祭壇に飾れていた復活のローソクも今日で外されることになります。
目に見えない聖霊の恵みを私たちはたくさんいただいています。イエスはかつて弟子たちにこう話されていました。
「あなた方にはこの世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。」、さらに「言っておきたいことはたくさんあるが、あなた方は理解できない。しかし、真理の霊であるその方が来られると、真理のあらゆる面であなた方を導いてくださる。」こう話されています。
私たちは聖霊について深い理解はできないとしても、私たちの歩みを聖霊がしっかりと導いて下さると、そのように私たちは信じたいと思います。聖霊の恵みが私たち一人一人に与えられているということは、私たちを勇気付けてくれることでもあります。
私たちにとっては、あらゆる面で足りないことばかりです。足りないことを自覚し、神に依り頼むことがあれば、聖霊の恵みがより一層訪れることではないでしょうか。自分は完璧だという思いでいるならば、聖霊の働きは開かれていかないような気がします。
イエス・キリストの十字架を感謝する、イエス・キリストの贖いに私たちは喜ぶことができます。そのことを受け入れることが出来る人に聖霊は与えられます。聖霊は清いものですから、私たちの心も清くしていかなければ、聖霊が入ってくる余地がないのではと思います。私たちの心の汚れをいつも清めて、聖霊を受けいれる準備をしていきたいと思います。
父なる神は、最愛のひとり子をお捧げしています。最愛の子イエス・キリストが、十字架の贖いの業を成し遂げて、私たち一人一人を父である神の御元へ招きます。私たちも感謝を忘れなかったイスラエルの民の信仰を学び、神が成就してくださったその御業を感謝して、その恵みに応えていくことが私たちの信仰の成長につながっていくものだと思います。
今日私たちに告げられた御言葉で、霊の結ぶ実りは愛であると語られています。そして聖霊の賜物は、一般的に七つの賜物として表現されています。教皇様は昨年、ローマを訪れる巡礼の人々への演説のなかで、聖霊の七つの賜物について度々話されています。それは、「上智」「聡明」「賢慮」「勇気」「知識」「孝愛」「主への畏敬」。分かりやすく言い換えると、知恵、理解、判断、勇気、神を知る、神を愛する、そして、神を敬う恵みということになります。信じる心を照らすといわれる聖霊に、私たちは心を開いて、私たち自身と教会のために、そして今、助けを必要としている弱き人、貧しい人のために、祈らなければと思います。』