2015年10月11日日曜日

年間第28主日

陽が短くなり朝晩の気温も下がり、すっかり秋の訪れを感じるようになりました。

聖堂の香部屋から見える「聖園こどもの家」の樹木の葉も色づいてきました。


今日の福音では、イエスの招き、神からの呼びかけの言葉を前にして、私たちはどれだけのものを手放せるのだろうか?
神の国に入る、永遠の命を受けるために、私たちに欠けているものを考えさせてくれます。

後藤神父様のお説教をご紹介します。


今日の福音の中に登場する一人の男の人が「永遠の命」を受けるにはどうしたら良いでしょうか、そういう質問をイエスにされています。みなさんは「永遠の命」をいただくことを神様に祈っていますか。「永遠の命」のために祈っているでしょうか。
意外と「永遠の命」まではお願いしていないと言う人がいるかもしれませんが、そうでしょうか。今日、皆さんは「永遠の命」をいただくために、祈りをしてこのミサを始めているのですね。どこで、そんな祈りをしていましたか。みなさんがミサの始めに回心の祈りをしました。「全能の神と兄弟の皆さんに告白します。…」という祈りをして始めました。そして最後に、その祈りの結びに「…全能の神がわたしたちをあわれみ、罪をゆるし、永遠のいのちに導いてくださいますように。」と祈っています。
(第三形式の祈り)これはミサの度ごとに欠かせない祈りとして捧げられています。ですから、みなさんもまた、ミサを通して「永遠のいのちに導いてくださいますように」という意向を持って、回心の祈りをしているのです。わたしたちもまた、今日、登場する金持ちの男の人と同じようにして「永遠の命」を祈っています。でも、わたしたちは時々、心の中からそのことを考え、意識して祈っていないということがたくさんあることが、ひとつ分かると思います。毎回、毎回その祈りがあって、ミサを捧げているわたしたちであるのに、そのことに気づかないままにミサに入っている。いつでもそうですけれど、何でもかんでも分かってやっているかというと、わりとそうではなくて、ほんのちょっとしたことしか分からないままに、祈りもそうですし、生活の中もそうですし、人との交わりの中でも、そんなことがわたしたちの現実ということかもしれません。
 神様の目から見て、人生を真面目に生きている人がたくさんいると思います。しかし、その真面目な人の根本的な精神にかえ難い「かたくなさ」があるということも、今日のみ言葉は語っているのです。この財産を持っている人はそうでした。また、先週も心のかたくなさから 問答があったことをわたしたちは思い出すでしょう。先週は離婚の問題について、ファリサイ派の人が意地悪な質問をイエスに投げかけたのです。根本問題をはき違えて、人間が自分たちの都合をよく考えることで、正当化しようとする働きがわたしたちにはあるようです。それはファリサイ的考えといっていいかもしれませんが。ファリサイ派の人々は イエス様に意地悪な質問をして、問い詰めようとして離婚問題を質問しました。イエス様はそのときはっきりと答えていたのです。そういう問題は、神とわたしたちの関係をおろそかに考え、おろそかにするときから始まるのだと話されました。そして強調しました。神があわされたものは離してはならないということが結婚の精神だ。だから旧約聖書で掟の中でいわれていることは、みんな人間の都合から、そうせざるを得ないことが記されているだけで、神様の目からみると、結婚は神の前で誓ったことであり、神聖であり、別れさせてはならないものだ。これが基本だとあらためて話されました。
 今日の福音の中でも人間の行為自体の根本について触れているような気がします。
人の目からみるといっけん恵まれた生活、財産を持つ金持ちの青年の話です。この青年はイエスが歩いていると走り出て来て、イエスの前に膝まづいたといいます。今日のこの聖書の話は、共観福音書、3つの聖書のなかで共通して取り上げられています。今日はマルコの福音ですが、マタイの福音ではその男の人は青年であったと記されており、ルカの福音では役人(議員)であったと記述になっています。この3つの福音書で共通していえることは、資産を持っている金持ちであったということです。
すなわち、「永遠の命」について質問をしたこの男の人は地位も名誉も財産もあるということが3つの福音書で共通することでした。さらに信仰においても、倫理的にも非常に熱心で真面目な人であったということも共通する話でした。律法を守る以外にわたしたちは「永遠の命」が与えられる道はないと信じ、モーセの十戒さえも小さい時から守ってきたという主張をしています。それだけ聞いたらまさに、100点満点の人ではないでしょうか。非の打ち所のないような生き方をしていた青年、この男の人は。「永遠の命」を確信したいがためにこの人は「善い先生」とイエスに呼びかけて、最大の敬意をはらって膝まづきます。イエスは小、さい時から真面目に生きてきたというこの青年に目を留め、じっと見つめます。イエスはこの男の人を慈しんで話されたのです。
 イエスの慈しみの目の中において、この青年に話しかけたことが、欠けているものがひとつあるという言葉でした。イエスはけっして突き放してではなく、いつくしみの愛をもってこの青年に声をかけているのです。真面目に生きてきた、掟は守っている、申し分のない生き方をしたかのようでしたが、ひとつ欠けているものがあなたにはあるのだと話されます。わたしたちの考えている世界には、能力にしても財産にしても持たないよりは持っているほうが大事ではないだろうか。そんな考えがあるようです。でも、イエスが示される生活、神様の世界では持つこともまた欠けるということになるのでしょうか。そのように聞こえてきます。誰もが羨むような能力や力や地位や名誉や財産も兼ね備えている人に対して「あなたにひとつ欠けているものがある。」それはわたしたちの世界とは違う神の世界での話でした。恵みの世界と神様の世界ではよく言われます。恵みは何の条件もなしにわたしたちに与えられるもの。条件がない、何かを交換して与えるというものが恵みではない、一方的に神様から与えられるのが恵みであるということ。でも今日登場してきたこの男の人は、財産から手を離すことができない人であったということがわたしたちには考えることができるのではないでしょうか。
 イエスはかつて、人が富と神に兼ね仕えることはできないと話されていますが、富の恐ろしさもイエスは知って、この男の人に財産について話されたのだと思います。財産を持っているこの人は、もしかしたらかわいそうな人や苦しんでいる人には助けの手を差し伸べていたかもしれません。それであればわたしたちもやっていることだと思います。でもどうだったでしょうか。詳細は分かりませんが、もしかするとこの人の思うところで、憎い人や厚かましい人や自分にとって受け入れにくい人に対して、愛の業はどのように行われていたというのでしょうか。わたしたちもそうだと思います。苦しんでいる人、悲しんでいる人を目の前にすれば誰でも助けの手を差し伸べます。それはできます。でも自分にとって受け入れがたい、何となく性に合わない人、そういう人にだれもと同じように愛をあらわすこと、愛を生きることは誰にとっても簡単なことではないと思います。愛は素晴らしい、愛は大切ですと言いながらも、本当にすべての人に対して同じように、愛を生きているかどうか問われる。わたしたちもこの男の人と同じように、律法は守っていると言いながら、神の目から見て本当に必要なところに手を差し伸べているかどうかは、反省すべき点が出てくるのではないでしょうか。
 もしそういう一部の愛に欠けたところがあるとするならば、本当に律法を守っているということにはならないでしょう。きっとこの青年もそうした面でイエス様の目に感じられたかもしれません。「あなたに欠けているものがある。持っているものを売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。」難しいことではないはずです。この青年はイエス様が言われたことは良く分かっていたはずです。でも、その財産を手放す自由は持ち合わせていなかった。自由は持っていたけれども自分の都合の良い自由だけを大事にしていたのかもしれません。財産や富からも自由になりなさい、それがきっと神様の心なのかもしれません。
 弟子たちは、この青年がイエス様の最後の言葉を聞きながら、自分はこの財産をどうすべきかは分かったでしょう。でもそれを決断し手放すといことにはまだ至らなかった。帰っていく姿はしょんぼりしていたはずです。立派な青年に思ったけれど、最後の最後、この青年の後ろ姿は悲しみでした。誰がそれでは神様の国に入ることができるのだろうか、弟子たちは自分のことについて考え始めました。ですから、驚きました。そうした一部始終を見つめながら、イエスの眼差しは今度は弟子たちに注がれました。
 そして弟子たちに話します。「人にはできないが、神にはできる。」イエスに招かれ、何もかも捨てて弟子となった12人の弟子たちは今、イエスを見つめています。今では宣教にも派遣される弟子たちになっています。イエスは弟子たちに「人にはできないが、神にはできる。」と言いながら、弟子たちのこれからの先もきっと示されていたと思います。それは十字架を指している言葉にも聞こえてきます。イエスは何度もこれまで自分の受難について話されています。でも弟子たちはそれを理解できなかったと、繰り返し繰り返し聖書は語ります。でも今イエスは、「人にはできないが神にはできる」という言葉の背景に、自分がこれから歩むべき道のなかで十字架に向かって、自分を捨てて自分の命をその十字架にかけて、すべての人の救いを神様に委ねる。わたしたちはひとつだけではない、ふたつ、みっつと数えきれない、欠けているものがあるような気がします。
 ですから、わたしたちも今日の福音をよく聞き、よく黙想しながら、富にばかり価値をおく生き方ではなく、富にばかり目を向ける心ではなく、新たな決断が求められるということではないでしょうか。イエスの見つめる眼差しにはいつも赦しがあり、招きがあります。ミサの最初の回心の祈りもそうであるように、この金持ちの青年がそれに気づいたとき、「永遠の命」に向き始めるのだと思います。聖書ではこの青年の行動、これからの生き方には語られてはいません。その時、しょんぼりしてイエスに背を向けて帰って行ったかもしれません。でも、この青年もきっとその日から様々に考える時間が与えられたと思います。そしてイエスが自分を見つめた眼差しの奥に自分を赦す、そして、自分を永遠のいのちに招くということに気づかれるはずです。わたしたちも神の眼差しのなかでいつも赦しが与えられ、そして招かれているんだということを心に留めて今日のミサにあずかっていきたいと思います。