2019年10月7日月曜日

年間第27主日

この日の福音(ルカ17・5-10)でイエスは、信仰を増したいという使徒たちに対し「からし種」一粒ほどの信仰があれば十分だと答えます。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。

『先週は金持ちとラザロのたとえ話で、その後これが続くわけで、少し唐突な感じがしないわけでもないです。「聖書と典礼」の脚注に『「1日に七回ゆるしなさい」という言葉に続く箇所。ここでもイエスは弟子たちのあるべき姿を教える。』と書いてありますが、ちょっともうひとつ抜けていますが。
 つまづきにならないようにということ。キリストの弟子たちのグループの時代から、教会が始まって今日に至るまで、教会の中の信者がいかに、信者にとってつまづきということが、日常的ということが分かります。そういうつまずきを与えることによって、信徒は教会から消えていく。それについて語っているのです。罪とは何か悪いことをしたわけではなくて、神との関わりを断ち切って、兄弟の交わりを断ち切って、共同体から抜けて行く人たちです。その原因はこのルカ福音書では、同じ信仰の仲間だというわけです。そういうつまずきにならないように。そういう人たちが戻ってくるならば、何回でもいいから迎え入れるようにというのです。そして戻ってくるように働きかけるように言うのです。

 その後に続くのが今日のこの箇所です。使徒たちはその教会の現況にあって、信仰が欲しいと言うわけです。信仰を増してください。そうするとキリストは、ほんのちょっとの信仰があればそれで十分だと言うのです。ひとつのたとえです。からし種と木が海に移る。別に信仰によって木が移るかどうかマジックの問題ではない。からし種という小さな信仰と大きな業と比喩的に極端に比較しているだけ。信仰があれば木が移る、そんな問題ではない。ほんのちょっとの信仰があれば、そういう共同体の中の困難を乗り越えることが出来るということ。そんな中にあって、脚注にあるように弟子のあり方を説明する。これがその次の箇所になっています。

 ごく身近な例をキリストはあげます。ある使用人がいます。普通の豊かな人。ラザロの話に続くのですが。使用人は畑で働く、あるいは羊を飼う。その仕事が終わって帰って来た時に、そこの主人はよくやったねと、食事の給仕をして、ご馳走するかというとそうではない。まず、使用人ですから、私が食事をするから世話をしなさいと言われます。それが終わったら食事をしても良いですよ。普通の情景がここで描かれます。
 その使用人が主人の前で誇るだろうか。感謝してもらうことがあるだろうか。果たすべき仕事を果たしただけにすぎない。別に謙遜を教えているわけではない。道徳の問題ではない。信徒の信仰のあり方のことで、個人的な道徳を語っているわけではない。
 信徒はどうなのかということ。ここだけですと分かりません。分かりやすく話をすると、
30年前くらいヨハネ・パウロ二世が「信徒について」という使徒的書簡を出しました。
その中では、最初に信徒について、次にその2年後に司祭について。その2年後に奉献者についてと3つの使徒的書簡を出しました。信徒についてはキリストに忠実な人 「CHRISTIFIDELES LAICI」という言葉で始まりますが、日本語の訳のタイトルは「信徒の召命と使命」です。
  余談ですが、昨日、北26条教会の運営委員会がありました。六甲学院の吉村信夫教諭を講師に今年2回信徒養成講座がありましたが、その吉村さんを迎えて、この度12日(土)に北26条教会で研修会を行うことになりました。そのタイトルが「固有の召命」
となっています。そこで、何でこのタイトルになったのか質問がありました。そうですね、普通、召命というと司祭とか修道者の召命になるので良く祈ってます。自分に関係ないですね。しかし、それは特殊な例です。司祭とか修道者の召命は本当に一部の特殊な例であるのですね。でも、召命は本来は信徒の召命です。ヨハネ・パウロ二世が出した書簡も信徒の召命がタイトルなのです。そこで、モデルになっている聖書のお話は、マタイ福音書のぶどう畑で働く労働者のたとえなのです。賃金を払う方ではなくて前半のほうですね。
朝6時に主人は広場に行って労働者を集めるのですね。1日1デナリオンでと。労働者たちは主人に呼ばれてぶどう畑で働くために呼ばれたのです。9時にも12時にも、午後3時にも5時にも行って。5時にはなにぶらぶらしているのとその話が続いていきます。信徒はそのように神によって呼ばれて、ぶどう畑で働く使命を受けている。これが召命です。
 
 ですから洗礼を受けた時点で、神から召命を受けて使命をうけるのです。それが畑で働き羊を飼う、その主人によって畑か羊に送られていく。そして使命を果たし帰って来たときに、俺はやったぞと誇れるのか。ただ、言われたことをやっただけだ。それを誇って何が素晴らしいことをやったのだと主人に、そういうもんじゃない。畑で働くか、羊を飼うか、そういうふうにひとり一人の信徒が呼ばれる。洗礼の時に呼ばれる。どの信徒も呼ばれて、その使命を果たして帰ってくる。そのときに、私は使命を果たしただけ、これが信徒のあり方、キリストの教えなんです。謙遜や道徳の教えではない。信仰そのもののあり方が、ここでは問われている。昨日の運営委員会で、そのように信徒はまったく考えていない。講師がどのようにお話するか分かりませんが。しかし、良い機会だと思っているのです。

  この召命というのは本来は信徒なのです。洗礼で使命を受ける。そして派遣される。
北26条教会ではこの前、高校生が3人堅信を受けたのですが、受ける人が自覚しなければならないことです。子供のときに洗礼を受けているが、召命を受けていることも分からない、使命を受けていることも分からない。その勉強をしたわけです。リーダーの方々もいっしょに勉強したわけ。非難をしているわけでないのですが、感覚的に分かっていない。ほかの人、大人の信徒の人も分かっていない。皆さん一緒に堅信を受ける人と同じことを学んでいきましたが、ここではそういうことが言われているんです。共同体の中にあって、いろんな問題があります。その時、信仰さえあれば、そういった信徒たちに対して、信仰のあり方、ひとり一人が神から呼ばれている。そしてひとり一人がが使命を果たしている。果たしたときに、それは言われたことをしただけであって、それ自身、当然誇るべきことではない。キリストはそう言うわけです。

 私たちひとり一人、そこまで到達していないかもしれない。今日そのことを分かって自覚して、それぞれ信徒として神から呼ばれたことの使命を果たして、その場は皆さんの日常生活、特別なこのような教会の場ではありません。日常生活の中で呼ばれている信徒として、その使命を果たしていく。このキリストのあり方、キリストが教えている信徒のあり方、信徒のあり方がわたしたちが出来るようにしていきたいと思います。』