主日ミサは、湯澤神父様が司式されました。
湯澤神父様の霊名「聖ミカエル」の記念日から2週間も経ってしまいましたが、この日のミサの「派遣の祝福」前に、教会からのお祝いをお贈りしました。
湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『この日の福音(ルカ17・11-19)は、「イエスはエルサレムへ上る途中」という設定で始ります。これは、十字架へ向かって歩んでいく途中ということを示しており、キリストの死と復活に向けて方向付けられている中での一つの出来事になります。
「重い皮膚病」とは、主にハンセン病を指すわけですが、これは今年、国が政策の誤りを謝罪したことにもなっています。
イスラエル人たちと、私たち日本人は、元々この病気に対する見方が全く異なっていたわけです。同じ人類なのでこの病気はどこにでもあったはずなのですが、日本人はこれを遺伝する病気と捉えたわけです。そのために以後、非常に大きな不幸を生んでいくことになっていきました。1950年代の初めには、アメリカから治療薬が届きこの病気は”治る病気”になり、伝染することもなくなりました。
今から2,30年前に、これらの施設の一つに子供たちを連れて訪問したことが何年か続いたことがありました。そこにいた人たちの言っていた言葉は、「私たちは自由になり、海外旅行でもどこでも行けるようになりましたが、唯一行けないところは自分の家族のところです」というものでした。相変わらず家に帰ると、あそこの家族はこの病気を出した、ということで差別や偏見の目で見られるということになったそうです。このような悲しい話を子供たちの前でもしてくれました。
一方、この病気について、イスラエル人たちは遺伝とは考えませんでした。カビと同じように空気感染する病気だと考えたようです。ですから今日の福音の箇所でも「重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、 遠くの方に立ち止まったまま」と書かれているように、家の中では2~3m 人と離れていなければならないし、屋外だと風があるので20~30m 離れるというのが約束になっていたようで、また鈴のような物を身に着けて周りに分かるようにしていたようです。ベンハーという映画でもそのようなシーンがありました。
このように聖書の時代には、このような人たちは隔離されずに日常生活をおくっていたわけです。しかし、ただ単なる病気ではなく、宗教的にも汚れたもの、救われないものとして扱われました。旧約聖書の律法を見るとわかりますが、汚れた者として、”交わり”から排除されたわけです。もし仮に病気が治ったとしたら、司祭の前で治ったことを宣言してもらわないといけないし、いけにえを捧げなければならないというのが、旧約時代の規則になっていました。
そういうわけで、重い皮膚病の人たちは、イエスから20~30m 離れたところから大声で「憐れんでください」と叫んだという状況だったということです。
マルコによる福音の奇跡物語に最初に登場するのが、重い皮膚病に対するキリストの癒しになります。この場面では、キリストは皮膚病の人の所まで”行って”、触れ清めています。もちろん触れることで自分も汚れるわけですが、あえてイエスは汚れた人たちの所に出向いて行って、触れて、そして癒したのでした。ここが、当時の他の宗教家と違うところになります。普通の宗教家、洗礼者ヨハネもそうですが、清さを保つために汚れから避けるように人々から離れているわけですが、キリストは逆に出向いていったわけです。
今日のお話では、そこまでしてはいないのですが、イエスは「(律法に従って)司祭たちのところへ行って、(治った)体を見せなさい」と言われました。そして、彼らは祭司のところへ行く途中で癒されたのですが、その中の一人だけしか、イエスのところへ戻って来ませんでした。このことに対して、イエスは「ほかの9人はどこにいるのか」と言われましたが、これは決して、他の9人の”恩知らず”を非難したわけではなかったのです。
癒された残りの9人も、重い病気が治ったことに対して、神に賛美を捧げることは人間として自然なことです。ですから、この9人も当然、宗教は違っても神を賛美しただろうと考えられます。
しかし、ただ一人戻って来たこのサマリア人が、彼らと違うところはどこかというと、”キリストのところに戻って来た”という点になります。これは、この民が”十字架に向かっている”ということと無関係ではありません。十字架に架かってキリストはメシアとして殺されていくわけです。そして、救いの業を完成させていきます。そのことを念頭に置くと、癒されたことに対して、神に感謝して、いけにえを捧げたりすることは、自然なことかもしれませんが、ただ一つだけ違う点は、その救いが”キリストを通して為される”ということに気付いたかどうかです。
この癒しが、”キリストを通して癒されていった”ということに気付いたのが、このサマリア人一人だけだった、ということです。
どのような人でもこのような癒しを受けると、神に感謝することはごく自然のことだろうと思いますが、本来の救いが”キリストを通して為される”ということに気付く人たちは、そうはいないということです。逆に言うと、キリストこそ私たちの救い主であって、救いを実現される方だと気づくことは、今日の現代社会にあってもキリスト教徒が少ないように、気付く人も少ないわけです。それはとても幸いなことだろうと思います。
そして、他の人に信仰がなかったわけでもないし、それでも救われるわけなのですが、しかし、この救いがキリストを通して実現するという「その信仰こそ、あなたを救う」と言ったこのキリストの言葉は重要なことです。
そして、それはルカが描いているように、彼らの描くメシア像ではなく十字架をとおして示される新しいメシア像です。この”キリストの十字架を通したメシア”=キリストという言葉は大きく意味が変わっていきます。そして、あたかもイエス・キリストといわれるように、”キリスト”はイエスにだけ使われるような言葉となっていくわけです。
この新しい意味での救いの実現は、キリストを通して行われ、そのキリストに対する信仰こそ私たちを救うものである。十字架の上では、もっとはっきり「今日あなたは、わたしとともに楽園にいる」と盗賊に言われたのと同じように。
私たちが、どこに信仰を持って立っているかということが問われます。それを今日の物語は私たちに教えてくれているのではないかと思います。
そのような意味で私たちは、この信仰を強めていかなければならないと思います。
先週の福音は、使徒たちが「信仰を増してください」という言葉で始まりました。
その信仰は、「イエスこそキリストである」という信仰です。
私たちの信仰がどういう信仰であるか再確認していきたいと思います。』