へりくだる者は高められる (ルカ18・14より)
今日の福音(ルカ18・9-14)は、ファリサイ派と徴税人の二人の祈りを対比させ、祈りの姿勢について教えられています。
この日のミサは、勝谷司教様と佐藤神父様の共同司式でした。
佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『今日の福音ではファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りが描かれています。 ファリサイという言葉は分離するという意味の言葉に由来します。 では何から分離するのか。 イエスが現れる 200年くらい前にユダヤはセレウコス朝シリアに支配されました。 この国はユダヤを支配してヘレニズム化政策、つまりギリシャ化の政策を進めました。 ギリシャ化というのは、エルサレムの神殿からいろいろなものを略奪して、異教の神々の偶像にいけにえをささげさせたり、律法を忘れさせ、掟をすべて変えてしまうことをしました。 ヘレニズム化を歓迎したのは上級祭司や土地を持っている人など実権を握る者たちでした。 逆に警戒したのが、下級祭司や農民たちでした。 上級祭司や権力を持つ者はセレウコス側についた方が人々を支配しやすかったので歓迎したのです。 下級祭司や農民は、唯一の神こそが自分たちを守るものであり、ギリシャ化には反対し、律法を厳しく守っていました。 のちに上級祭司はサドカイ派となっていき、下級祭司はファリサイ派となっていきます。 ですからファリサイ派は、初めは弱い者とともに手をたずさえて、自分たちの宗教を守っていこうとする人たちだったのです。
「分離する」というのは、ヘレニズム化とは明確に分離するという意味です。 それは自分たちの律法をしっかり守り、セレウコス朝と対抗しなければならないということから、結 束を守るために必要だったと言えます。 その後マカバイ戦争が起こり、神殿を取り戻したということが聖書のマカバイ記に書かれています。 イエスの時代にもファリサイ派は続いていて、律法を厳格に守るということが続いていました。
さて、イエスの時代にはユダヤはセレウコス朝からローマ帝国に代わって支配されていましたが、宗教に関してはある程度ユダヤ人の自由に任されていました。 ローマ帝国は、税金徴収という仕事のためにユダヤ人の中から徴税人を任命していました。 その仕事でローマから給料をもらっていたと思いますが、それに加えてユダヤ人に手数料を上乗せして徴収することもできたようです。 ユダヤ人でありながらローマ帝国の手伝いをし、さらに上乗せしてユダヤ人から税金以上の金を取る裏切り者と思われていたのです。
この二人、ファリサイ派の人と徴税人の祈りが、神に受け入れられるものかどうかをイエスはたとえで示しているわけです。 ファリサイ派の人の祈りは、「わたしはこのような者でありません」、「わたしはこのような者です」という2つの祈りが入っています。 わたしはこのような者ではありませんというのは、 奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者、また、この徴税人のような者でもないことに感謝します。 わたしはこのような者ですというのは、 週に二度断食し、全収入の十分の一をささげています。 果たして、これは祈りといえるのでしょうか。 この祈りには神の恵みを求めることを感じさせるところが全くありません。 すべて自分の力で達成することができたと言っているだけです。 この祈りを神が聞いて「偉いねえ」とほめてもらえるとでも思っているのでしょうか。
神に心を向けて折っているのではなく、単に自分の行わなかったこと、行うことができたことを言っているだけです。 自分で自分はこんなに出来て偉いのだと思っているだけで、こんな報告は神にとってどうでもいいことです。 言ってみれば当然のことをしただけです。 むしろ、「わたしは当然のことをしただけです、わたしを憐れんでください」というなら神様もこの人を正しいとされたかもしれません。
ファリサイ派の人が本当にしなければならないことは、迫害されていた時代の精神に戻り、律法を守らない人には自ら近づいて行って律法を教え守るよう導くべきです。 そうでない人には近づかずむしろ排除しようとしているように感じます。 遠く離れて立って祈っている徴税人には、ユダヤ人に不正を働かず正しく徴収するよう近づいて行って働きかけるべきでしょう。 ここに出てくるファリサイ派の人は自分が律法を守ってさえいればそれでいいという考えです。 確かに週に二度断食するとか、全収入の十分の一をささげることはいいことには違いありません。 しかし隣人を愛するという心が欠けていましたし、神のあわれみを求める心に欠けていました。
さて、徴税人はどうかというと、ただ自分の罪を悔いて「神様、罪人のわたしを憐れんでください」 と言うだけです。 遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言ったのです。 この徴税人は周りからさげすまれて孤独になったときに、ふと立ち止まって、過去を振り返って、われに返ったのかもしれません。 いろいろな不正によって富を得ていたことによって、苦しんでいる人がいることに気づいたのかもしれません。 これからこの徴税人は人々に取りすぎた分を返すかもしれませんし、不正をしないようになるかもしれません。 神に心を向けて憐れみを求めるという祈りは、そういう行動をとることができることにつながるのです。
わたしたちもどう祈ればいいか分からなかったときには、他人と比較して優越感をもってする祈りをしていたかもしれません。 少なからず、ここに登場するファリサイ派の人のような面があったかもしれません。 しかし、皆さんもこの徴税人のように神に心を向けて、自分の行いを振り返って、素直に神に憐れみを求める祈りもしているでしょう。 他人との比較をしているだけでは、神とのかかわりを妨げてしまうだけでなく、人との関係も断つこ とになります。 周りの人がすべて競争相手という世の中にあって、イエスが教える祈りは大切なものであると思います。
わたしたちも「神様、罪びとのわたしを憐れんでください」という祈りから始めていきましょう。』