2019年12月15日日曜日

待降節第3主日

キリストの教えを、私たちはもっと深いところで理解しているでしょうか?

この日のミサは、2ヶ月ぶりに湯澤主任司祭によるミサ司式でした。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『私が学んだ神学校は、教区の神学校と違って、東京の瀬田にあるフランシスコ会の神学校です。学んだ中での教義神学、今は組織神学と言っていますが、公教要理のような難しいものを教える授業があって、ドイツ人の神父様でした。その神父様の部屋にいくと一つの掛軸がかかっているのです。漢字ですが日本語で読むと「鳥啼いて山更に幽なり」という中国の詩人の一節です。今は冬ですが、奥の細道という本があって、ちょうど夏ですね。仙台あたりから山の中を奥羽山脈越えて行くわけです。向こう側に行くと有名な俳句「閑さや岩に染み入る蝉の声」を詠むのですがその前に、山を越える時に似たような言葉が漢詩から引用しているのです。「鳥啼いて山更に幽なり」。ちょうど別な中国の詩人のやはり言葉ですが、啼くか啼かないかの違いですが。全然鳥の声も何もしなくて山の静けさを感じると同時に、鳥が啼くことによって更に山の静けさを感じる。感じることは同じですが。私の教授は中国の北京でも教えていたので中国思想にすごく造詣がある人で、ヨーロッパでは有名な人でしたが、日本ではそうでもなかった。

 なぜこのような話しをしたかと言いますと、今日の福音の中で(洗礼者)ヨハネは
 「来たるべき方はあなたでしょうか。」「メシアはあなたですか。」と聞いているのです。ちょっと不思議な気がしないわけでもないです。イエス様の母のマリア様と(洗礼者)ヨハネの母のエリザベトはすごく親しくて、ヨハネを妊ってマリア様も神の子を妊って会いにいくわけです。お産の準備をするくらいに親しいのに、子供たちはまったく知らないのですネ。
  問題なのはそのキリストの応えです。「見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。」。その前に見ないと伝えられない。自分のしていることを良く見なさい、と言っているのです。福音書の中で最初にヨハネが弟子たちの二人をイエスに付いて行かせる。「あなたはどこにお住まいですか。」「来て見なさい。」具体的には、ここでイザヤの預言を引用していますが、キリストの行動を見たら来るべき方かどうか分かるはずだと、キリストは言っているわけです。同じように弟子たちもヨハネについての理解に関して、あなたがたは何を見に行ったったのか、見たはずだと言うわけです。

 先ほどの中国の詩人は音の問題だけですが、ここでは「見る」というもっと知るためには重要な感覚です。百聞は一見にしかずですから、身をもってもっと分かるはずなのに、見えてないことをキリストは言っているわけですね。ヨハネさえも。見えていないのかと言っているのです。 
 待降節にこの箇所が読まれる意味を考えたときに、キリストは人となってこられたときに、実際に様々なことを行動を示し行ったわけですが、結局は弟子たちも理解できなかったわけです。ルカの福音書ですが、十字架の場面でこの人たちは何をしているのか分かっていないと言いますが、分かってないのは殺すということではないのです。キリストが教えたメシアの姿が理解できていない。弟子たちもあなたは神の子メシアですとペトロが言っているのですが、しかし理解していない。何も見えていない。音を感じながら静けさを感じとれていない。単に感覚的な静けさでないこと、五感の向こう側があるのですが、それ以降の感覚が届いていないということですね。 
 何を見にいったのか。同じようにヨハネの弟子たちにキリストは語るわけですが、御降誕、キリストが人となって現れて、言葉で説明し、行動で表しにもかかわらず、あなたがたは分かっているのでしょうか、という問いかけです。

  クリスマスを前にして、私たちひとり一人にキリストは問いかけていると理解しても良いと思います。(馬小屋を指して)こういうふうに飾られていますが、これの向こうに皆さんは何を見ていますか。ひとつの余談ですが、まだ神父で若い頃、教会全体でクリスマスに誰を招待し、どういう雰囲気にするのか、毎年考えていました。あるときベテランの信者が「貧しさ」を打ち出しました。その「貧しさ」とは何ですかと聞いたら、馬小屋で生まれたからと言いました。それは貧しさではない。貧しさはもっと見えないところに、キリストの貧しさがあるのです。
 見えるところで目が止まってしまうというのが、私たちの五感で分かる限界です。限界の向こうをキリストは求めているのです。表現したが、表現していないもっと奥のところが分かってますかとキリストは問いかけています。 
 明後日12月17日、クリスマスの8日前から、私たちはキリストの問いかけ…人となって現れてくれたけれど、私たちはその奥を見ていたか、自ら問いかけていきたいと思います。』