2019年12月25日水曜日

主の降誕(夜半のミサ)

主のご降誕おめでとうございます。


7時からの夜半のミサには600名の方がお越しになり、一緒に救い主キリストの誕生をお祝いしました。今年は、森田神父、レイ神父、地主名誉司教の共同司式により、英語ミサとの合同ミサで行われました。


森田神父様のお説教をご紹介します。

『マリア様とヨセフ様はベツレヘムに向かいます。マリア様はもしかしたら(イエス様の)誕生に期待をふくらませながら旅についたかもしれません。しかし、旅先は人がごったがえしていて、宿をとれませんでしたので、とうとう馬小屋になってしまいました。そのときに、現代であればインターネットなどで予約がとれるのですが、一生懸命探したあげくとうとう見つからなかった。神様から頂いた尊い子供をこんなところで産むことになってしまった。ある意味で最悪のパターンとなってしまったと言えます。それでヨゼフを責めたくなったかもしれません。けんかをしていたかもしれませんが、きっと一生懸命やったあとならば、もういいということで、聖母はきっとそういう非難をなさらずに、その運命を受け入れられたなんだと思います。

 今日、天使たちが羊飼いにあらわれて飼い葉桶に寝ている乳飲み子、これが徴(しるし)であるとおっしゃったのです。このように馬小屋の飼い葉桶に寝かせられるようなことは不幸なのではなくて、逆に神様からの徴(しるし)ですよ。ということが天使にも告げられたということです。後からマリア様は羊飼いたちからこの話しを聞くことになります。そしてこれは神の御心だ、永遠の神様のご計画だったことを知ることになります。
 ですから私たちも一生懸命やって、それで駄目であればお互いに責め合うことなく、もしかしたら自分たちが想像していなかった、一般的には最悪と言われることのなかにも、神様の永遠の計らい、お考えがあるかもしれないことを心に留めたいと思います。私たちは一生懸命やっても思い通りにいかない。お互いに責めたくなる。責任的に言えば、悪いことばかりになるかもしれませんが、神様は私たちに自分が一生懸命やったらそれで良い。そして世の中が考えるのがまったく違う。答えも私があなたがたに持ってますよということをおっしゃりたいのだなと思います。イエス様が宮殿の中ではなくこの貧しい馬小屋で生まれたということは、人となってくださったことだけでもありがたいのですが、一般の人や身分の高い人のためにお生まれになったのではなくて、社会から外されてしまった人たちに対してもお生まれになったというメッセージが本当に伝わる気がします。

 この後、イエス様は王様に命をねらわれて エジプトに行くわけですが、難民になるわけです。そういうことを良しとされた。ここは私たちの考えとは違う。そして、だからこそいっそう私たちに近くなった。驚くほど近くなられて、私たちよりももっと下になってくださった。こういうメッセージが馬小屋でお生まれになるという中にも読み取れると思います。イエス様がメシヤだ、私たちが考えて最高の場所ではなくて、この最低の場所に生まれたとういうことは、神様の別な計らいであったかもしれない。私たちはそう考えることができるかもしれません。
 この旅先、馬小屋。一生懸命やったけれども、そこに私たちもそうだと思いますが、
実は私たちが考えていなかった素晴らしい計らいがあるかもしれない。そのことを今日、考えていきたいと思います。』