今年最後の主日ミサでした。
聖家族も当時の迫害から難を逃れようと宿も見つからずに彷徨っていた名もない多くの難民のなかの一家族でした。
この日の勝谷司教のお説教の大要をご紹介します。
『「聖家族」の祝日を迎えました。
第1朗読、第2朗読は、家族の在り方を示しています。
そして、福音書は、どんな困難に直面しても、家族が一つになってその困難を耐えて克服していく姿を描いています。
昨年シノドスがありましたが、それについての話は以前したことがあります。
今の教皇フランシスコが強調していることは、最も弱い立場に追いやられた人たちと共に歩む、そのことを常に機会あるごとに、何処へ行っても主張されています。
今回の訪日に当たっても、その線はぶれることなくお話されていました。
家庭の問題についても、昨年のシノドス以前に開かれた家庭に関するシノドスにおいて、現実は非常に厳しい、特にヨーロッパにおいては、教会が規定している結婚の形態を取らずに、いわゆる正式な結婚をせずに婚姻関係を結んでいることや、シングルマザーの問題など、教会が受け入れることができないような家庭については、教会が勧めるあるべき姿に従っていないということから、疎外され教会から離れざるをえない。でもそれは、彼らが離れていったというよりは、むしろそのような教会の体質が彼らを阻害し追いやっているのだと。
同じような論点から、青年についても言われました。青年が教会を離れていったのではなく、教会が青年から離れていったのだと。
つまり、現代社会が抱えている様々な問題が、教会の勧めるあるべき姿からかけ離れている現実を、良くないことだとして切り捨ててしまうのか。それが従来の”裁く”教会の姿でした。
しかし、教皇フランシスコはそうではなく、まさにそのような現実に生きてその中で苦しみ、そしてその生きる指針を求めている人たちに対して、教会があるべき姿はこうだと、言ってみてもしょうがないことです。むしろ、その人たちの苦しみに寄り添い、共に歩み、その重荷を担うことによって、進むべき方向を指し示していく、それがこれからの教会に求められる姿であると強調されています。
今日の聖家族の祝日は、そのようなテーマが一つにありますが、もう一つ重要なテーマがあります。まず今回、教皇様が訪日され、様々な意趣がありましたけれども、マスコミにほとんど取り上げられずスルーされた問題が一点あります。
私は東京のカテドラルで行われた「青年との集い」の総責任者でした。当初、青年が本当に集まるのか心配していた面もありましたが、予想を遥かに超える申し込みが殺到し、申し込み開始から僅か2日間で席が埋まってしまいました。さらにできるだけ多くの青年たちに参加してもらおうと長椅子を全て取り外しパイプ椅子に置き換え何とか追加の200席を確保しました。
ところが直前になって、あと20席確保するようにと、教皇様から指示がありました。その席は誰のためかというと難民の人たちのためのものでした。そして何とか最前列に20席確保しました。本番の際には、教皇様が正面の扉から入って来て、難民の人たちの前を通った時に足を止めて、教皇様は彼らと親しく話しをしました。
教皇様のスピーチは、3人の青年の代表が話したことに対して答えるという形で行われました。会場には関係者を含めると1000人以上が入っており、そのうちの200人程度は外国籍の青年たちでした。
教皇様は、メッセージの中で、
「日本の社会は、今日ここを見ても分かるとおりモノトーンではない。多様な文化・国の人たちがいます。そして何よりも皆さんの保護を求めて、遠くから来られている難民の人たちがいます。彼らを助けてあげて下さい。」とおっしゃられました。教皇様は、このように難民や移民の人たちに常に心を留めておられます。
実際に日本の教会は、インターナショナル・チャーチになって来ており、多様な文化の人たちがいて、その中では異国に来て困難な状況に置かれている人たちがたくさんいるということを改めて知らされました。
難民だけではなく、技能実習生で不当な扱いを受けている人たちもおり、これに関して札幌教区はこの一年間で格段にその対応が進んでいることが私はうれしく思います。
手稲教会の取り組みは、道新の一面全部で取り上げられていましたし、函館のケースについてもNHKや道新で取り上げられました。教会が、そして教会に来ている高校生や青年が、この難民の人たちと関わり、生活支援だけではなく、直面している労働問題についても対応している。函館市内のプロテスタント教会がクリスマス献金を持ってきて、湯川教会で取り組んでいる技能実習生の支援活動に対して賛同するので、このお金を使ってくださいと持ってきました。
いま地方の教会ほど、国際的な教会になってきており、日曜のミサも多言語で行われています。
北一条教会についても以前からお話しているとおり、英語ミサと同じ共同体のメンバーとして、一つの共同体を作っていくような方向で検討していっていただきたいと願っています。
今日の福音書のテーマというのは、まさに「聖家族」自身がエジプトへと逃れた、つまり難民だったわけです。そして私たちは、クリスマスの宿がなく馬小屋で生まれたというシーンも含めて、特別な二人という見方をしていますが、実はそうではないと私は思うのです。たくさんの人たちが人口調査のために移動していく中で、多くの人たちが宿を見つけられずに彷徨っていた。そういうたくさんの人たちの中の名もない二人だったわけです。ヘロデの迫害はこの二人をピンポイントで狙っていたわではなく、誰だかわからないから大勢の子供たちが殺戮されたわけです。ですからその対象はたくさんいたわけです。聖家族だけではなく他の多くの家族が危機を感じていました。そう考えると、たくさんの人たちが難を逃れようと避難したと考えられます。そういう多くの避難民の中の名もない三人だったわけです。そう考えると、この聖家族は特別なものではなくて、多くの小さき人たちの一人にすぎない。そう考えれば、私たちは現代社会において、日本国内に来て困難に直面している人たちの中にも、この聖家族はいるのだということに、改めて私たちは対応していく必要があるのだと思います。』