降誕祭を迎えるにあたり、両親であるヨセフとマリアの試練について思いを巡らせてみましょう。
この日は森田神父様のミサ司式でした。
森田神父様のお説教の大要をご紹介します。
『今日の福音は、イエス様が生まれる前の試練について語られています。
当時も今も、女性が男性なしに子供を宿すということは有り得ないことです。ですから、絶縁しようと思っても、このようなことは本人が説明すればするほど、怪しいと思われてしまいます。聖霊によって身籠ったということをヨゼフであってもどこまで信じられるかわからないですね。
旧約聖書の律法によれば「石打ちの刑」にあたることです。律法的にだけ判断すると、ヨゼフはマリアを石打ちの刑に引き渡してもおかしくはないわけです。しかし、ヨゼフはマリアを石打ちの刑にあわせないために、自分との縁はなかったことにしようと思ったのです。そのようにマリアを救おうと思ったのです。そのような意味で「ヨセフは正しい人であった」し、さらに愛を持って自己犠牲として、自分が引き下がればマリアを救えると、愛のある正しさを示しました。このような意味でもヨゼフはイエスの父親になるに相応しく、認められるような出来事のような気がします。これは神様による試練の一つではないかと思います。そして、天使が現れて「これは聖霊による業なので安心するように」というお告げがあったわけです。
マリアとしても、こんなことは信じられるはずがない、という思いはあったと思います。そこで、神様が為さったことは、後は神様にやっていただこうと考えたのではないでしょうか。私たちにも似たようなこととして、いま自己弁護しても他の人を傷つけてしまうかもしれない、だから今は自分が罪を被るしかない、という場面も往々にしてあるのではないでしょうか。「善を行って苦しむ者は神の御心にかなっている」と聖書にも書いてあるとおり、あとは神様にお任せするしかないと。
神の御心を行えばみんな分かってもらえる、ということだけではなく、善を行いながら、かつ苦しむ、ヨゼフとマリアはイエスを育てる前に、このような試練を受け、神様からも期待されて教えられていたのだと思います。
メシアがこのように登場して世を救うということをどれほど悪魔が嫌うことか、潰そう潰そうという力が働くわけです。イエスが生まれてすぐに、そのことがヘロデ王の耳に入ります。そして捜索の手が入り見つからないとなると、2歳以下のベツレヘムの子供たちを皆殺しにしてしまいました。このような逃げ場のない状況のなか、ヨゼフは夢のお告げを受けて、真夜中に荒れ野を通ってエジプトへと逃れ王の手からメシアを守ったのです。力や有力者をとおして主を守るのではなく、神様への従順によって主は守られる。この力のない両親によってメシアが守られる。ヨゼフの信仰と勇気がイエスを守りました。
他の試練としては、旅先でマリアが産気づいて宿も見つからず、とうとう馬小屋へ案内されたわけです。神様から授かった命を馬小屋で生んでしまうという葛藤もあったかと思います。しかし、後で羊飼いたちが来て、「天使が現れました。そしてこういいました。飼い葉桶に寝かされている幼子、これがしるしであると」それを聞いた時マリアは、飼い葉桶で生まれるということが”しるし”となったということは、これが神様の計画だったのではないか。神様の御心であったのではないかと、マリアは気付き思いめぐらしていたのだと思います。
今日の福音で私たちは、イエス様が誕生の前から、マリア様とヨゼフ様がいろいろな所で試練にあって、そしてイエス様を守り育てていった、ということを思いながら降誕祭を迎えていきたいと思います。』
ミサの後、いつもお世話になっているボーイスカウトへ活動支援献金をお贈りしました。