湯澤神父様の「福音への一言」を、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音への一言 湯澤神父】
2021年8月22日 年間第21主日(ヨハネ、6.60-69)
✚ Pax et Bonum
兄弟姉妹の皆様
今日の福音を以て、天から下って、人を生かすパンについての一連の話が終わります。先週は被昇天の祭日で、一回分抜けてしまいましたから、もう一度『ヨハネ福音書』の六章を最初からゆっくり見直したらよいでしょう。これまでイエス様が話してきたことを、人々は信じられず、拒否しました。そこで、イエス様は、ついてきた弟子たちに尋ねます。「あなたたちも離れて行きたいか」。ペトロが代表して答えます。「あなたこそ永遠の命を持つ者、神の聖者」と。しかし、そう答える彼らの中にも信じられない人たちが出ることを、イエス様はご存じです。
まず、イエス様の話は、一般に受け入れられません。イエス様について来た人たちは、物珍しさで付いて来たわけではありません。少なくとも神様が天からのパンで養ったモーセの出来事を知っている人たちです。
こうしてイエス様は弟子たちの信仰について尋ねます。それは、単に命のパンに限りません。イエス様全体のことを受け入れられるか否かでもあります。イエス様は、神であり、御言葉でした。御言葉は人となり、私たちの間に住まわれた。この事実は、人々にとって、特に正しい熱心なユダヤ教の信仰を持っている人達にとって受け入れることが難しい問題でした。完全なもの、神が不完全なもの、人間になり、私たちと同じ人間として、私たちの間で共に生きることは、考えられないことでした。これは、ヨハネの福音書を読む人たちにとって大きな障害でした。
実際は、人間になったのではなく、人間のように見えただけではないか、そう思う人人もいました。なっただけで、人間に見えたに過ぎないのだ。こうしたことは、弟子たちの間でも問題になりました。ここでイエス様は、受け入れた弟子たちの間にも受け入れられない人たちがいる、と述べています。「あなた方の内には信じない者たちもいる」と。この言葉は、単にイスカリオテのユダにだけ向けられた言葉ではないでしょう。もしかしたら私たちに向けられた言葉かもしれません。私たちは、神様が人となる、神様がいつも食べるあのパンになる、その本当の意味、神様の行うことの真の意味を受け入れることが出来ないかもしれません。それは、十字架を前にして明らかになってくることです。人が元居たところに戻る時、人となった御言葉、パンとなったイエス様のことを真に知るでしょう。イエス様の十字架の言葉は、それを物語っています。「成し遂げられた」。ご自身の使命を完成させ、すべてを知らせたからでした。もし、毎朝パンを食べる人がいたら、そのパンを見てください。イエス様は、そのパンになられたのです。私たちを生かす命を与えるために。そして、御言葉が人となられたことを黙想してみましょう。 湯澤民夫
【聖書朗読箇所】
喜びの源である神よ、
あなたのことばは信じる者を照らす光です。
きょうも、わたしたちに力強く語りかけてください。
信じる心をたえず新たにし、
主キリストに従うことができますように。
B年用・試用 集会祈願より
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第1朗読 ヨシュア記 24章1~2a、15~17、18b節
ヨシュアは、
イスラエルの全部族をシケムに集め、
イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。
彼らが神の御前に進み出ると、ヨシュアは民全員に告げた。
もし主に仕えたくないというならば、
川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、
あるいは今、
あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、
仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。
ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
民は答えた。
「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、
するはずがありません。
わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、
奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、
わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、
わたしたちの行く先々で、
またわたしたちが通って来たすべての民の中で、
わたしたちを守ってくださった方です。
わたしたちも主に仕えます。
この方こそ、わたしたちの神です。」
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 5章21~32節
キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。
妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、
夫は妻の頭だからです。
また、教会がキリストに仕えるように、
妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
夫たちよ、キリストが教会を愛し、
教会のために御自分をお与えになったように、
妻を愛しなさい。
キリストがそうなさったのは、
言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、
しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、
聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を
御自分の前に立たせるためでした。
そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。
妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
わが身を憎んだ者は一人もおらず、
かえって、キリストが教会になさったように、
わが身を養い、いたわるものです。
わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、
二人は一体となる。」
この神秘は偉大です。
わたしは、キリストと教会について述べているのです。
福音朗読 ヨハネによる福音書 6章60~69節
ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに
気づいて言われた。
「 あなたがたはこのことにつまずくのか。
それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
命を与えるのは“霊”である。
肉は何の役にも立たない。
わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」
イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、
御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
そして、言われた。
「こういうわけで、わたしはあなたがたに、
『父からお許しがなければ、
だれもわたしのもとに来ることはできない』
と言ったのだ。」
このために、弟子たちの多くが離れ去り、
もはやイエスと共に歩まなくなった。
そこで、イエスは十二人に、
「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
シモン・ペトロが答えた。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。
あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
あなたこそ神の聖者であると、
わたしたちは信じ、また知っています。」