2021年8月14日土曜日

8月15日 聖母の被昇天 福音メッセージ

この日のミサを司式された勝谷司教様のお説教と、松村神父様の福音メッセージを、聖書朗読箇所と併せてご紹介します。 


【勝谷司教 お説教】


何度か説教や文書でふれたことですが、コロナが流行し始めた頃、テレビ等の情報に影響され、常に怒りの感情に支配され、心が健康でなくなっていることを感じたことがありました。今も政府や行政の無策ぶりに怒りの感情が起こってはいます。しかしその怒りは、自分にとって正しいもの、正義の怒りであると全く疑いを持っていないところに問題があることもお話ししました。この怒りについて少し考えてみたいと思います。


 地方の教会を回っていると、私が「正義と平和協議会」を担当しているせいでしょうか、政治的な問題について質問されることがよくあります。その場合多くは、教会と政治の関わりについて批判的な意見を持っている人たちからのものでした。数年前、日本の安全保障に関わる法律が立て続けに成立していった頃は、日本社会だけではなく、地方の教会の中でも激しい意見が交わされました。地方の教会にはそのような問題に敏感な自衛隊の基地があるところが多いのもその理由の一つです。教会を訪問して気づいたのは、政治問題に関わることに批判的な人だけではなく、当然教会の社会教説や司教の声明等を錦の御旗にして正義を訴え、教会を仕切っている活動家肌の人たちがいることでした。それがまた、教会に分裂を招いていました。そこで、気づいたことがあります。このことについて論争するとき、双方がベースにある怒りに任せて議論していることです。つまり、感情的になって議論しているのです。

 怒りには2種類あります。福音の価値が損なわれているとき、すなわち人間が苦しめられているときに感じる怒り、神からくる聖なる怒りと、自分の欲求を満たすときにそれを邪魔するものに対して向けられる自己中心的な感りです。私たちはこれを混同してはなりません。

 政府の政策に反対の立場の人たちは、当然その怒りを聖なる怒りと感じ正義は我らにあると思っています。しかし、賛成の立場の人も、同様なのです。そこで、双方の意見がたたかわれるとき、あらわれてくるのは、ベースにある怒りの感情です。怒りそれ自体は、善悪はありません。しかし、怒りに対してどういう態度をとるかによって、正誤、善悪が生じて きます。
 たとえそれが聖なる怒りと思えるものであっても、怒りに任せて感情的になるとき、それは別物になります。怒りを伝えることと、怒りに任せて感情的になることは違います。感情的になるとき、議論は相手を屈服させること、自分に従わせることが中心となり、時には相手の人格さえ傷つける心無い中傷が表れてきます。これは、顔を合わせた議論をする時ではなく、ネットの世界で匿名でなされるとき特に顕著に表れてきます。私は、ネットの世界でこのような非建設的な中傷が繰り広げられることに心を痛めています。しかし、顔が見える議論でも、それは起こります。教会においては、特に田舎の小さな教会においては、どのような意見を持っていても、匿名ではいられません。政治問題について、賛成反対の意見を持つ場合、まるで宗教対立ででもあるかのような、感情的な対立にしばしばなってしまいます。そして、教会では少数派の立場の人は、教会に居づらくなるのです。ある教会では、政府の出す法案に反対の意見が多数を占める中で、ある信徒が私の耳元で、「実は私は賛成なんですが、そんなこと言えません。」と呟きました。このように阻害されている人がいる懸念を他の信者に伝えたところ、「そのような考えの人は教会に来なくてもよい」と、私と多くの信者の前で断言する人さえいました。正義を主張していながら、これは正義ではありません。聖なる怒りを表明していながら、従っているのは自己中心的な怒りです。しかし、私にとって救いだったのは、小教区訪問時では激しく意見が対立し、ちょっと感情的にもなり後味が悪い議論をした人が、その数週間後の地区大会で、積極的にスタッフとして働き、私を歓迎してくれたことでした。教会でタブーであった話題に正面から立ち向かって、乗り越えられない立場の違いを意識しながらも、主において一つである信仰の本質を保ち続けているこ とを感じうれしく思いました。

 今日の福音のマグニフィカト、これは、「人々を苦しめている現実、抑圧し、差別し、疎外して人権を侵害している社会を変革せよ」と言うメッセージと解釈することもできます。
 私たちが求める、救いは、個人的な救いではなく、このような抑圧や不正がなくなりすべての人が共に救われる世界の実現を意味します。そして、それは座して待って与えられるのではありません。キリストが始められ、命を捧げてくださった救いの技を、教会、すなわち私たちが引き継いで担っていくものです。このマグニフィカトのベースには当然、不正義に対する聖なる怒りがあります。しかし、その怒りは、イデオロギーに基づくものではなく、 抑圧され苦しめられている人々に対する深い共感と哀れみに基づくものです。

 わたしたちの活動を通して「正義と平和」を実現するベースにある感情は、そのような人々への強い共感に基づく「怒り」です。私たちは、イデオロギーに従って行動するのではなく、苦しむ人々への深い共感に基づいて連帯し、そこにある怒りを表明するのです。怒りにとらわれるのではなく、怒りをコントロールして、誰をも傷つけることなく正しく「怒り」 を表明し続けるのが私たちの使命です。


【福音メッセージ 松村神父】



8月15日のメッセージ

昔、TVの中の正義の使者であるヒーローやヒロインになりたいと、憧れを抱き真似をした人も少なくないのではないか。または、伝記小説などに登場する優秀な能力を持った人に憧れて、将来の夢にした人もいるかもしれない。私たちはこのように具体的な人物像を心に置き、日々の学びや生き方にスパイスを与えて、自分を奮い立たせてきたのではないか。私自身も小学生の頃には江戸川乱歩にはまって、明智小五郎のような推理探偵を目指し、とにかく頭の回転を速くしようとクイズやなぞなぞにはまった時もあり、または一方で祖父の死を目の前にして、人を助けてきた祖父に報いるために、人助けの仕事がしたいと誓った時もあった。しばらくすると祖父母の働きを眺めながら高齢者が快適に、幸せに暮らせるためにと当時の有名な建築家を真似ようと学んだ時期もあった。それぞれ時代時代に具体的な人を思い浮かべては、その人になろうとしていた。しかし、ある時それらの人に限界があったことを気づかされた。常にその先には、より有能な人、新しい仕組み、新しいユニバーサルデザインが現れ、夢を描いた人たちは廃れていったのであった。

 今日、聖母被昇天の祝いの日に、何を思うか。聖母マリアの天への昇天は聖書の中に書かれていない。初代教会後の信仰によって祝われるようになり、8世紀末に聖母被昇天として定められ、8月15日に祝われるようになった。しかし教義になったのはわずか70年ほど前である。そもそも東方教会ではマリアの亡くなった日として祝われたが、その後7世紀になってから西方教会にも受け継がれ被昇天の日となった。ただし、正直何が真実かは私たちにはわからない。それよりも日本にとってザビエルが上陸した日が8月15日。そのため日本の守護聖人が聖母マリアとされたことや、終戦記念日が8月15日で戦争の終わりにマリア様の祝日だったこと。これは偶然というよりも、日本に神様が働かれた(啓示)と考える方が私はしっくりくる。聖母マリアへの崇敬は、その先を見る神様の存在を表す象徴と捉えなければならないのだろう。だから決してマリア様を崇拝の対象としてはならないし、神様もそのために昇天したわけではないのだろう。

 教義では「聖母はキリストの救いを完全な仕方で受け、キリストによって成就した救いの範型(TYPE)となった。キリストのもたらした救いは人間の全身心の救済であるから、聖母マリアがキリストの救いの力を完全に受けて、神の栄光に輝いたと信ずるのは当然である。」とされる。だからと言って聖母マリアが特別な存在として信仰するのではなく、今日の祈願文や朗読箇所にもあるように、聖母の被昇天は、キリストによる救いにあずかる人たちの象徴として、信じるすべての私たちの救いへの希望を表現している唯一の人類と捉える必要があるのだろう。先の夢見るヒーローヒロインに憧れ崇拝するのではなく、その先にある正義や平和という願い、神のみ旨をしっかり見なければ、目の前の聖母マリアの存在がぐらついてしまう。被昇天という教えを通して、聖母マリアが昇天され完全に救われたこと、その聖母マリアが願ったことにしっかりと心を向けて、私たちも歩みたいと思う。

8月15日は日本にとって特別な日。神の啓示は、この日において命を優先とし、キリストのいのちにあずかるということを大切にして、具体的な平和を求める日として祈り働いていければと思う。

聖母マリア、そして聖フランシスコザビエルの願った私たちのこの国での幸せを祈りあっていきましょう。



【聖書朗読箇所】


全能永遠の神よ、

あなたは、御ひとり子の母、汚れのないおとめマリアを、

からだも魂も、ともに天の栄光に上げられました。

信じる民がいつも天の国を求め、

聖母とともに永遠の喜びに入ることができますように。

   集会祈願より


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第1朗読 ヨハネの黙示録 11章19a、12章1~6、10ab節

 天にある神の神殿が開かれて、 その神殿の中にある契約の箱が見え〔た〕。

 また、天に大きなしるしが現れた。 一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、 頭には十二の星の冠をかぶっていた。 女は身ごもっていたが、 子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。 また、もう一つのしるしが天に現れた。 見よ、火のように赤い大きな竜である。 これには七つの頭と十本の角があって、 その頭に七つの冠をかぶっていた。 竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。 そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、 産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。 女は男の子を産んだ。 この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。 子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。 女は荒れ野へ逃げ込んだ。 そこには、神の用意された場所があった。

わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。 「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。 神のメシアの権威が現れた。」


第2朗読 コリントの信徒への手紙一 15章20~27a節

(皆さん、)キリストは死者の中から復活し、 眠りについた人たちの初穂となられました。 死が一人の人によって来たのだから、 死者の復活も一人の人によって来るのです。 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、 キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。 最初にキリスト、 次いで、キリストが来られるときに、 キリストに属している人たち、 次いで、世の終わりが来ます。 そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、 父である神に国を引き渡されます。 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、 国を支配されることになっているからです。 最後の敵として、死が滅ぼされます。 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。


福音朗読 ルカによる福音書 1章39~56節

 そのころ、マリアは出かけて、 急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、 その胎内の子がおどった。 エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。 「あなたは女の中で祝福された方です。 胎内のお子さまも祝福されています。 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、 どういうわけでしょう。 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、 胎内の子は喜んでおどりました。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、 なんと幸いでしょう。」

 そこで、マリアは言った。

「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。

今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、 力ある方が、

わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、

その憐れみは代々に限りなく、

主を畏れる者に及びます。

主はその腕で力を振るい、

思い上がる者を打ち散らし、

権力ある者をその座から引き降ろし、

身分の低い者を高く上げ、

飢えた人を良い物で満たし、

富める者を空腹のまま追い返されます。

その僕イスラエルを受け入れて、

憐れみをお忘れになりません、

わたしたちの先祖におっしゃったとおり、

アブラハムとその子孫に対してとこしえに。

 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、 自分の家に帰った。