2021年4月4日日曜日

「復活徹夜祭」~「復活の主日」

主の御復活おめでとうございます!



4月3日(土曜)18:30からの復活徹夜祭と、4月4日(日)9:00からの復活の主日ミサの様子をご紹介します。

復活の主日ミサでは、先日助祭に叙階されたジョルジュ桶田達也新助祭が、初めてお説教をされました。


 【復活徹夜祭】

光の祭儀

洗礼の約束の更新


勝谷司教 お説教

勝谷司教 お説教

『私たちが厳しい現実に直面したとき、それぞれがとる態度は様々です。理解しがたい現実に遭遇して、そこから逃げることなく現実を受け入れることにより、その苦しみにどういう意味を与えるのか。そこに信仰者とそうでない人との違いが表れてきます。

 多くの場合、厳しい現実が私たちにとって選択の余地なく襲いかかってきます。その現実を前にして、私たちはただ受け入れしかいられない存在なのでしょうか。言い換えるならば、私たちの人生はそのような偶然に左右されるようなものなのでしょうか。確かに自分では選びようのない現実があります。何故と問うことの出来ない不問に襲われることもあります。

 与えられた状況に私たちに何の落ち度も責任のないことも多いでしょう。そして、苦しい現実を誰かのせいにしたくなることもあるでしょう。しかし、与えられた環境に責任がなくても、そこでどう生きるかは私たちの自由に委ねられており、その選び取った生き方には、私たちに責任があるのです。私たちはそのことを「召命」と呼びます。広い意味での「召命」です。すなわち神は私にそこで生きるように召しておられる。

そこで生きるようにと神が望んでおられるなら、必要な助けも神は必ず与えてくださると違いない。たとえ今の苦しみに私が意味を見いだすことが出来なくても、選びようのない現実であるならば、神が私をそこに召しておられる。だから必ず知らぜらる意味があるのです。

 そして、そのことを保証するのが、主の復活です。限られた今と言う時間の中では見えないものも、永遠の時間の中にある復活の主が私の人生を知り、愛し招いてるのです。その主が言われます。「恐れるな、私はすでに世に打ち勝つ。」。私たちは復活の信仰によって、初めて苦しみを積極的に選び取り、捧げることが出来るようになるのです。この確信に基づいて私たちはたとえ厳しい現実であっても、そこで生きることを選びとるのです。偶然でもなく、仕方なくでもなく、そこに神の招きを見ており、その生き方を選び取るとき、人生の意味が変わってきます。

 人生が偶然によって左右されているのではなく、はっきりとした愛の招きがある。その愛に守られ、与えられた今の自分があるのだ。そう悟ったとき、厳しい現実を前にして どれほど自分の無力を感じても、それに直面し乗り越えていく力を私たちは得ることが出来るのです。

 空の墓での天使のメッセージは次のようなものでした。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。」。ガリラヤとは弟子たちの生活の場です。復活の主は遠くにいて私たちを招いているのではなく、まさに多くの困難や苦しみの現実生活において、私たちと共にあり、そこに生きる力と希望と与えてくださるのです。』


【復活の主日】


桶田助祭のお説教


桶田助祭のお説教

『先ずもって、御復活おめでとうございます。
そして、今日この時皆様の前にこうして立たせて頂いておりますことに感謝を申し上げます。お蔭をもちまして去る3月24日、終身助祭の叙階をさずけていただくことが出来ました。あと20日しますと69歳をむかえる私のようなものの召命をお許し下さいました勝谷司教様、召命を希望した後に図らずも再婚することになった私達夫婦を注意深く見守りお導き下さいました養成担当司祭の皆様、仕事を持ちながら最初の一年は週末の2日間、二年目の昨年はビデオによる聴講と変則ずくめの私を戸惑いつつも受け入れて下さいました東京カトリック神学院の指導司祭と千葉さんをはじめとした神学生の皆様、そして、常日ごろ何くれとなくお気遣いいただき、お声掛け下さり、お祈り下さいました北一条教会の皆様に心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

札幌教区の終身助祭の初穂として、お仕えすると共に、後に続く方々のために一年でも長く勤めてまいりたいと思っております。今後ともお声かけとお祈りを賜りますようお願い申し上げます。

さて、本日の福音についてであります。私は先ほど、御復活おめでとうございますと言い、皆さんはそれにお応えになりました。何故でしょうか。何故私たちはめでたいといえるのでしょうか。そうです、私たちは知っているからです。2000年前の中東イスラエルにイエス様がお生まれになり、私達のために十字架でお亡くなりになり、死者の中から復活され、そのことによって私達の罪が洗い清められ、私達が解放され、私達がこの人生を生きながら、過行くいのちの中で永遠のいのちを生き始めることが出来ることを知っているからです。何故でしょうか。何故私たちは知っているのでしょうか。そうです、2000年の長きにわたり、この福音を喜びをもって述べ伝え証しし続ける数限りない方々がいるからです。その一人ひとりの生きざまは絶え間なく繋がり集り、あたかも歴史の中のキリスト教という名の大河のごとく滔々(とうとう)と今の私達の目の前に横たわっています。

この大河の源流の2000年前の今朝の様子を福音書は伝えています。わずか1週間前の日曜日に多くの支持者の歓呼の声に迎えられながらエルサレム入場を果たされたイエス様が、突然逮捕され、裁判にかけられ、死刑判決を受け即日処刑されてしまいました。幸い弟子たちは逮捕を免れましたが、エルサレムには不安と不穏な空気が漂っており、弟子たちは散り散りに隠れ家に身を潜めています。そんな中、人目を忍んで女性たちが動き出します。そしてつい先程、暴かれた墓を発見します。イエス様のご遺体がありません。誰に持ち去られたのでしょうか。すぐに思いつくのは狂信的な信奉者の仕業か、イエス様の崇敬化を恐れる体制側の仕業と言うところでしょうか。

まるでサスペンス劇場のような出だしです。今朝の時点で、ほとんどの使徒たちはまだ復活の可能性すら思い至っておらず、復活のイエス様との出会いにはしばらくの時が必要でした。

ひるがえって、2000年後の今朝、ここにお集りの皆さんにお聞きします。皆さんはイエス様が復活されたことをご存知です。では、あなたの復活のイエス様はどこにいらっしゃいますか。お会いできていますか。イエス様と共に在ってこその復活祭の喜びです。

お会いできている方は幸いです。これからも共に歩みながら共にあるイエス様を証して下さい。
はぐれている方は、見えるイエス様のしるしを探しましょう。見えるものを通して、見えないものを見いだすのです。ヒントは「人」です。

これからの復活節に洗礼志願者の方々と共に主を探し求め五旬祭までには再びお会いさせて頂きましょう。志願者の方々と共に聖霊を受けさせて頂けることを目指しましょう。

かつて、聖ヨハネ・パウロ2世教皇は、次のように述べられました
「喜びなさい、イエスがこの世に来たから。
喜びなさい、イエスが私たちのために十字架で死んだから。
喜びなさい、イエスが死者の中から復活したから。
喜びなさい、イエスが洗礼によってわたしたちの罪を洗い清めたから。
喜びなさい、イエスが私たちを解放したから。
喜びなさい、イエスが私たちの主であるから。」
そして、最後にお命じになりました
「この喜びの伝令者になりなさい。」

今日一日、イエス様の御復活をおおいに祝いましょう。
そして明日から、一人ひとりが各々の生活の中で喜びの伝道者となる新たな一歩を踏み出せますよう、主のお恵みを願いながらミサを進めてまいりましょう。』


レイ神父 福音メッセージ

『マグダラのマリアについて聖書で読むときには、常にイエスとの関わりで語られると知っておくことが大切です。最初の登場では、イエスは7つの悪霊からマリアを癒されました。その後、マリアはイエスに従う女性たちのグループに加わりました。

マグダラのマリアの話は私たちへのひとつの模範となります。彼女が罪人であったか、そうではなかったかはわかりませんが、はっきりしているのは、マリアがイエスに出会った人生のある時、彼の神聖さ、力強さ、愛情深さに心を奪われたということです。それは彼女の側からすると絶対的な忠誠を伴う関係性でした。彼女は最後までイエスの受難を分かち合い、そしてその死に際して、あきらめることさえ拒みました。

イエスが復活した時、最初にマグダラのマリアに現れたというのも、ですから驚くことではありません。それはあたかも彼女の忠誠と愛に対する褒美のようです。しかしそれよりもイエスはマリアに一つの使命をお与えになります。他の弟子たちに、まことにイエスは蘇りあとでガリラヤで皆に会うと知らせなさい、と告げられます。

イエスからの私たちへメッセージは「心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(ルカによる福音書10:27)です。マグダラのマリアは心からイエスを愛したことで、完全に具体的に実行した美しい手本です。ゆえにマリアはイエスが同様の人々を皆、報いて祝福される模範となるのです。』