主の御復活おめでとうございます!
4月3日(土曜)18:30からの復活徹夜祭と、4月4日(日)9:00からの復活の主日ミサの様子をご紹介します。
復活の主日ミサでは、先日助祭に叙階されたジョルジュ桶田達也新助祭が、初めてお説教をされました。
【復活徹夜祭】
光の祭儀
洗礼の約束の更新
勝谷司教 お説教
『私たちが厳しい現実に直面したとき、それぞれがとる態度は様々です。理解しがたい現実に遭遇して、そこから逃げることなく現実を受け入れることにより、その苦しみにどういう意味を与えるのか。そこに信仰者とそうでない人との違いが表れてきます。
多くの場合、厳しい現実が私たちにとって選択の余地なく襲いかかってきます。その現実を前にして、私たちはただ受け入れしかいられない存在なのでしょうか。言い換えるならば、私たちの人生はそのような偶然に左右されるようなものなのでしょうか。確かに自分では選びようのない現実があります。何故と問うことの出来ない不問に襲われることもあります。
与えられた状況に私たちに何の落ち度も責任のないことも多いでしょう。そして、苦しい現実を誰かのせいにしたくなることもあるでしょう。しかし、与えられた環境に責任がなくても、そこでどう生きるかは私たちの自由に委ねられており、その選び取った生き方には、私たちに責任があるのです。私たちはそのことを「召命」と呼びます。広い意味での「召命」です。すなわち神は私にそこで生きるように召しておられる。
そこで生きるようにと神が望んでおられるなら、必要な助けも神は必ず与えてくださると違いない。たとえ今の苦しみに私が意味を見いだすことが出来なくても、選びようのない現実であるならば、神が私をそこに召しておられる。だから必ず知らぜらる意味があるのです。
そして、そのことを保証するのが、主の復活です。限られた今と言う時間の中では見えないものも、永遠の時間の中にある復活の主が私の人生を知り、愛し招いてるのです。その主が言われます。「恐れるな、私はすでに世に打ち勝つ。」。私たちは復活の信仰によって、初めて苦しみを積極的に選び取り、捧げることが出来るようになるのです。この確信に基づいて私たちはたとえ厳しい現実であっても、そこで生きることを選びとるのです。偶然でもなく、仕方なくでもなく、そこに神の招きを見ており、その生き方を選び取るとき、人生の意味が変わってきます。
人生が偶然によって左右されているのではなく、はっきりとした愛の招きがある。その愛に守られ、与えられた今の自分があるのだ。そう悟ったとき、厳しい現実を前にして どれほど自分の無力を感じても、それに直面し乗り越えていく力を私たちは得ることが出来るのです。
空の墓での天使のメッセージは次のようなものでした。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。」。ガリラヤとは弟子たちの生活の場です。復活の主は遠くにいて私たちを招いているのではなく、まさに多くの困難や苦しみの現実生活において、私たちと共にあり、そこに生きる力と希望と与えてくださるのです。』
【復活の主日】
桶田助祭のお説教
レイ神父 福音メッセージ
『マグダラのマリアについて聖書で読むときには、常にイエスとの関わりで語られると知っておくことが大切です。最初の登場では、イエスは7つの悪霊からマリアを癒されました。その後、マリアはイエスに従う女性たちのグループに加わりました。
マグダラのマリアの話は私たちへのひとつの模範となります。彼女が罪人であったか、そうではなかったかはわかりませんが、はっきりしているのは、マリアがイエスに出会った人生のある時、彼の神聖さ、力強さ、愛情深さに心を奪われたということです。それは彼女の側からすると絶対的な忠誠を伴う関係性でした。彼女は最後までイエスの受難を分かち合い、そしてその死に際して、あきらめることさえ拒みました。
イエスが復活した時、最初にマグダラのマリアに現れたというのも、ですから驚くことではありません。それはあたかも彼女の忠誠と愛に対する褒美のようです。しかしそれよりもイエスはマリアに一つの使命をお与えになります。他の弟子たちに、まことにイエスは蘇りあとでガリラヤで皆に会うと知らせなさい、と告げられます。
イエスからの私たちへメッセージは「心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(ルカによる福音書10:27)です。マグダラのマリアは心からイエスを愛したことで、完全に具体的に実行した美しい手本です。ゆえにマリアはイエスが同様の人々を皆、報いて祝福される模範となるのです。』