2021年4月17日土曜日

復活節第3主日 福音メッセージ

  復活節第3主日 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




 【福音メッセージ 松村神父様】

弟子たちの前に復活された主が現われ、まざまざとそのあり様を見せつける今日の福音書は、宣教のときに伝えるべき確信が語られている。不思議な出来事で私たちにはどう頑張っても口では証明できない出来事。だから宣教のときに人に伝えるのはとても難しいと感じる。イエスは復活の出来事の根拠をモーセの律法と預言の書と詩編、すなわち私たちで言う所の旧約聖書の言葉を神が実現するというところに根拠を置く。すなわち神は言葉を実現する方であるという信仰である。復活の出来事は神の直接介入であり、マリアの受胎とイエスの誕生と受難と死を通して行われるが、私たちが直接イエスの死と復活に直接介入することがらは、良くも悪くもわたしたちの罪という行為であった。だから第一朗読の使徒言行録でも第二朗読のヨハネの手紙でも、悔い改めが描かれている。洗礼者ヨハネが語るように悔い改めの呼びかけこそが宣教の具体的な第一声なのだろう。

さて、悔い改めとは何かといわれると戦々恐々としてしまうのが人間の悲しい性である。しかし、私がいつもゆるしの秘跡で強調するのは、罪を犯したならば神の手の届くところまで戻っておいで!ということに尽きると感じる。一度闇を味わってしまうとそれは甘―い蜜で、周りが見えなくなり抜け出せなくなってしまう。まるで麻薬を連想させられる。身近なところで皆さんがよく知るトンチの一休さんにも『水あめの毒』という話があるが一度眺めてみるといいかもしれない。人間の悲しい性とずるがしこさが代表されていると思う。さて、光の届くところ、いつでも引き返せる範囲でなければ、私たちは独りで抜け出せない。悔い改めとは自分の立ち位置を自覚し、一人で振り返り神の光のもとに戻る行為。だからこそいつも光を見て、光が薄まったと感じると戻ることをしなければならない。私たちの目を開かせる回心の呼びかけ。『耳のあるものは聞きなさい』というイエスの言葉はまさに光そのものなのである。それと同時に一人で立ち戻れなくなる怖さをも想定しておかなければならないだろう。

さて、人類が回心すると何が起こるのだろう。それは誰かがではなく自分自身が低くされ、他者に奉仕し、嫉妬や妬みが取り去られ、人を尊重し、自分は謙虚になり、人を喜んで愛せるようになる。善の循環。この歯車がかみ合ったとき、私たちは常にキリストの平和と真の幸せが訪れる。神の国とはそのような状態なのだろう。これを目指す福音宣教への働きこそ、私たちの使命であり、言動指針になるのだろう。私たちはキリストに選ばれた弟子。自信と誇りをもっているからこそ自ら悔い改めることが恥ずかしいことではなくて、喜びの出来事なのだろう。難しい言葉ではなく、やさしい態度と言葉で人に接していくことから始めましょう。


【聖書朗読箇所】

救いの源である神よ、
  あなたは御子キリストの復活によって、
  全世界を罪と死の支配から解放してくださいました。
  あなたに呼ばれ、一つの民とされたわたしたちをみことばによって強め、
  主の復活をあかしする者としてください。
   集会祈願より

第1朗読 使徒言行録 3章13~15、17~19節

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、
わたしたちの先祖の神は、その僕(しもべ)イエスに
栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたは
このイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、
その面前でこの方を拒みました。
聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。
あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、
神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。
わたしたちは、このことの証人です。

ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、
指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。
しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられた
メシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。
だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。


第2朗読 ヨハネの手紙一 2章1~5a節

わたしの子たちよ、
これらのことを書くのは、あなたがたが
罪を犯さないようになるためです。
たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、
イエス・キリストがおられます。
この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、
全世界の罪を償ういけにえです。

わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、
神を知っていることが分かります。
「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、
偽り者で、その人の内には真理はありません。
しかし、神の言葉を守るなら、
まことにその人の内には神の愛が実現しています。


福音朗読 ルカによる福音書 24章35~48節

二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときに
イエスだと分かった次第を話した。

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
そこで、イエスは言われた。
「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。
亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、
わたしにはそれがある。」
こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、
イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、
彼らの前で食べられた。

イエスは言われた。
「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、
必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、
言っておいたことである。」
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。
「次のように書いてある。
『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
また、罪の赦しを得させる悔い改めが、
その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。