ミサの中で洗礼志願式が行われました。
洗礼志願者は、松村神父様からの「洗礼を望みますか?」との問いかけに「はい、望みます」と答え、手渡された使徒信条を唱えた後、最後に神父様から塗油を受けました。
これから、5月23日(日)に予定されている洗礼式に向けて仕上げの勉強に入ります。頑張ってください。
ウルバン神父様の福音メッセージと、聖書朗読箇所をご紹介します。
【福音メッセージ ウルバン神父】
“ことはない、わたしです”!
もう夜になりました。いくつかの油ランプに照らされた薄暗い部屋に、弟子たちが集まっていました。暗い沈んだ顔をもって、互いを慰めることもできなかった。もうすぐ自分も捕まえられると心配して、門を固く閉じたのです。朝早く夫人たちに“イエスが生きている”とい言われたのに信じませんでした。マグダラのマリアにも、エマウスから帰ってきた弟子にも知らされたのに、信じませんでした。主はペトロに現れたと聞いた時、小さい希望が沸いてきたが、やはりもペトロ言葉をさえも疑いました。狼を恐れている羊の群れのように震えていました。
その時、部屋は優しく輝かされて、声が聞こえた:シャローム、恐れることはない。懐かしい声でした。見ると、イエスはそこに立っていました。嬉しく飛び上がるはずでしたが、恐れながら隠れようとした。イエスを見ても怯えて信じませんでした。“来て、私の傷を見て触れてみなさい”と聞いた時、一人また一人がイエスにゆっくり近づいて傷を触れました。とうとう心の中に暗闇が消えて希望が沸いて来ました。それで皆は主を囲んで、イエスの姿をあちこち触れて喜びにあふれた。それでもまだ疑いが残りました。“食べるものがあるか”と聞かれたとき、イエスには焼いた魚が渡たされました。その食べた残りが手から手へ渡された時、最後の疑いが消えました。その時の騒ぎ、その時の喜びを、私たちはなかなか想像できないでしょう。イエスが生きていることの大喜び。
ところが一人の弟子はその夜、皆と一緒にはいなかった。トマでした。生き生きして、喜びに溢れた弟子達に“イエスは生きている、本当に生きているよ”と言われた時のトマの答えを、私たちはみなよく知っています。“私は自分の指を手の傷に入れなければ、信じることはできません”と。今の時代の私たちはどんな目でトマを見ているでしょうか、この”疑うトマ“を?
どうして”疑った“でしょうか?どうして深い穴の悲しみや絶望に落ち込んだでしょうか。皆よりもイエスを愛したからです。弟子の中で一番偉くなりたいと思ったこともないし、イエスの胸に横たわろうともしないし、ただ皆の後ろに立って、イエスを見ることだけでも幸せで、イエスを失うことを一番恐れていました。
“私が行く所へあなた方は付いて行くことはできない” と言われた時、“あなたがどこへ行くか私たちには分かりません”と心配しながら聞いたのは誰だったでしょうか。主は“エルサレムへ行こう”と言って、弟子たちはイエスを止めようとした時、トマは一人で付いて行った、皆に呼び掛けて“行きましょう、死ぬことになったら、一緒に死にましょう”と。
復活の夜、イエスを愛する弟子トマは主の傷を調べたでしょうか。いえ。トマは喜びの涙のうちにイエスの服を触れて、”私の主よ、私の神よ“と呼びながら、自分のすべてをイエスの手に渡した。これはイエスを愛する弟子トマでした。
私たちも同じ心を持ってイエスに言いましょう:“私の主よ、私の神よ”。
【聖書朗読箇所】
あわれみ深い神よ、
あなたは、キリストのとうとい血によってわたしたちをあがない、
水と聖霊によって新しいいのちを与えてくださいます。
年ごとに主の復活を祝うわたしたちが洗礼の恵みを深く悟り、
信仰に生きることができますように。
集会祈願より
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第1朗読 使徒言行録 4章32~35節
信じた人々の群れは心も思いも一つにし、
一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、
すべてを共有していた。
使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、
皆、人々から非常に好意を持たれていた。
信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。
土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、
使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、
おのおのに分配されたからである。
第2朗読 ヨハネの手紙一 5章1~6節
イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。
そして、生んでくださった方を愛する人は皆、
その方から生まれた者をも愛します。
このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、
その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
神を愛するとは、神の掟を守ることです。
神の掟は難しいものではありません。
神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。
世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。
だれが世に打ち勝つか。
イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。
水だけではなく、水と血とによって来られたのです。
そして、“霊”はこのことを証しする方です。
“霊”は真理だからです。
福音朗読 ヨハネによる福音書 20章19~31節
その日、すなわち週の初めの日の夕方、
弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエスは重ねて言われた。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、
わたしもあなたがたを遣わす。」
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。
だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、
彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、
トマスは言った。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、
また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、
わたしは決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、
それはこの書物に書かれていない。
これらのことが書かれたのは、
あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、
また、信じてイエスの名により命を受けるためである。