主日ミサは、場崎神父様と後藤神父様の共同司式により行われました。
場崎神父様のお説教をご紹介します。
『イエスが生きていた時代の福音書の中に書かれている事件、そしてそれ以外の事が起きたに違いありません。今日語られた福音もそうです。これを現代風にニュースでかかったとしたら、どういうふうに伝わるでしょうか?
「皆さんおはようございます。7時のニュースをお送りいたします。昨日午前10時頃、エルサレムの東側の神殿で、神殿にお参りしていたガリラヤ人たちがローマ兵によって殺されました。詳細はまだ明らかにされていませんが、神殿を汚していたローマ兵と衝突したものと思われます。
次の事件です。一昨日、エルサレムの地下水道、その出口に建っているシロアムの塔が崩壊し18名の死者が出ました。原因は塔の土台の不具合によるものです。現在調査中です。」
そして、そこで殺されたガリラヤ人。そして事故で死んだ18人。この出来事が伝わっていた。もちろんイエス様も知っていました。当時の人々はいろいろなニュースを聞いて、「あの人たちは何で死んだんのか?きっと悪いことをしたのに違いない。罪を犯したからに違いない」そう思っていたんです。私たちも普段のニュースを聞いた時に、どう思うでしょうか?「あの人がこんな事件を起こした。ああ、あの人は悪い人だった。」 あるいは見知らぬ人が癌になった。「きっとあの人は罪が重かったから、罰を与えられたに違いない」 あるいは「なぜ、私が病気になるの? きっと神様が罰を与えたんだ」そのように思ってしまうんです。
イエス様がそれに対して、どう思っているのか?
私たちも東日本大震災の時に、1万5千人以上の人が死んだ時に、なぜ罪のない人たちがそうなるのか?
罪を犯したからそうなったのではない。
あなた方が回心をするために、神様はその業をなさったのだ。
それでは亡くなった方たちはどうなったのか?
それは神様が全部保証してくださいます。
永遠の宴、平和な国へ招いてくださいます。
その出来事をとおして、あなたはどう自分を神様に向かわせたのか?ということを私たちに問われているわけなのです。
そしてイエス様は、回心をしなければ、私たちは決して神様のもとに立ち返ることが出来ないとおっしゃいました。
気仙語の訳者である山浦さんが、洗礼のことを「水潜る(くぐる)」というふうに表現しました。それは、流れる川の中に自分を沈めて、そして息を止めるぐらい、そして一度死んで、そして生き返る。その思いで回心に与るのだということです。もともと洗礼、すなわち洗礼者ヨハネの時の悔い改めの洗礼の古来の意味は、私たち一人一人が穴だらけの小舟なのだ。それを川の底に沈める。すると川が流れて、そして私たちの穴だらけの傷の所に全部神様が、癒し、そして清めてくださるのだ。そして私たちは新しく生きるのだ。ということです。
私たちは、いつも日々の生活の中で清められている。清められているのだけれど、私たち自身が清くなりたいと思う決心がまだまだ遠い。そういう中で、私たちは四旬節の間で、神様に回心する。清めてもらう。そしてまた人をも清めることが出来る方に、祈り求める。それが四旬節における大きな恵みです。
”わたし”だけではありません。”わたしたち”が一緒になって、清められて、天国の宴に招かれることを切に願いながら、今日の日を過ごしてまいりたいと思います。
「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」』
ミサの後、「黙想会」が行われ、場崎神父様の講話をお聴きしました。
私たちが日々習慣のように唱えている「主の祈り」に込められた回心についてお話されました。
講話の最後は、次のように結ばれました。
「いつも皆さんの中から、泉が湧き上がってくる。そして清められていく。そして信者であっても信者ではなくても、皆さん平等に神様の愛がそそがれる。それは、神は善い人の上にも悪い人の上にも、太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるからだ。そして詩編の51編に「雪よりも白くなるように」それは、今まで以上に清くされるように、というように祈るわけです。私たちは日々、淀みの水ではなく、いつも清められていく自分がここにいて、神から愛されて、祝福されているということを心に留めて、歩んでいきたいと思います。」
場崎神父様、体調がすぐれないなか、私たちを回心に導いてくださるお話をいただき本当に有難うございました。