この日のミサは、後藤神父様と佐藤神父様の共同司式により行われました。
福音では「主の変容」の場面が朗読されました。
この日行われた洗礼志願式には5名の入信志願者が臨まれ、神父様の前で洗礼の意思を表明し、正式に洗礼志願者となりました。
約1ヶ月後の復活徹夜祭には、皆さんが揃って洗礼の恵みに与れることができるよう祈り支えましょう。
この日の後藤神父様のお説教の大要をご紹介します。
『「灰の水曜日」から始まった【四旬節の典礼】は、主の復活までの主日を除く40 日間に定着するまでは色々な変遷を経ていると伝えられています。しかし、キリストの受難を思い起こして、それを生きる期間としての四旬節。そのことは、復活をもって切り離すことは出来ないこと。初代教会の時代から「主の日」に信者が集まり、主の復活を記念を行っていたということは、カタコンベの壁画にも描かれており、そのことが推測ができるようです。
また、四旬節を過ごしながら主の受難と復活に信 者を固く結びつける意味合いからも洗礼式が行われるようにもなりました。四旬節の目的、期限は、すべてのキリスト者の生活がこの過ぎ越しの秘儀にあったのです。罪のゆるしを受けて、新しいいのちを得て、復活されたキリストの姿にあやかることが出来ますように。そういった新しい出発に向けての準備でもあることは、この四旬節の精神でもあります。四旬節、皆さんはどんな日々を過ごされていますか。
今日は、説教の後に洗礼志願式を行い、洗礼の準備を進めている受洗予定者を紹介することになります。
さて、先週のイエスに対する悪魔の誘惑の話から、今日はイエスの変容の話 に変わりました。黙想をする中で単純にキリスト者の信仰に対して精神的にも肉体的にも、四旬節の日々を過ごすなかで、霊と肉において変容してゆくことが語られているように思えました。今日のみ言葉、イエスの姿が変わったという出来事は、どの福音書でも語られています。イエスは弟子たちに「エルサレムに上って苦しみを受け、殺され、三日目 に復活することになっている。」と話しています。そのことを誰にも話すなと戒め、さらに「それでもわたしについて来たい者は、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。」と話されましたが、それから八日目に起こった出来事でした。
イエスは高い山に上られ祈っておられる時に、その姿は変わったと聖書は記しています。この現場に立ち会ったのは限られた弟子で、ペトロとヨハネとヤコブの三人だけでした。でも一緒にいたはずの三人の弟子はひど い睡魔に襲われていて、ぼんやりしていたかのようでしばらくは、目の前で起きていることが良く分からなかったのです。40日にわたって悪魔の誘惑を退けたイエスを思うと、誘惑に負けるなという声が響いて来るようです。神の恵みをいただく時にでさえ、うっかりしてもらい損ねている私たちは、弟子たちとそう変わらないかもしれません。復活祭に向かう四旬節の準備の大切さがココにも描かれているような気がします。
ベトロはおぼろげな意識が目ざめる中で、ことの重大さを知り悔やんだことでしょう。とっさに叫んだのが「先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです。」そして、「仮小屋を三つ建てましょう。」いかに慌てふためいていたかが分かります。聖書には、ペトロが「自分が何を言っているのかわからなかった。」とはっきり書かれています。 ペトロの失敗、ぼやっとした性格。イエスの忠実な弟子として、はまだまだが時間を必要としたペトロ、ほかの弟子でした。そういう姿は私たちとほとんど同じ。そういうことを私は黙想する中で感じています。
今日呼びかけているみ言葉で、「イエスの変容の出来事」は、私たちに恵みを受けとるために「心の準備」がいかに大切かを伝えていると思います。「自分の十字架を背負いなさい」ということは、祈ることを大切にし、十字架の輝きを知るために、己を捨てる生き方も大切にしなければならないと、四旬節の中で考えるように話されていると思います
命の大切さ、十字架の神秘を理解することの大切さ。自分の十字架を背負ってイエスに従うことの大切さ。そのために時には、自分を捨てるという覚悟も持たなければイエスの忠実な弟子にはなれないということ。四旬節の歩みを私たち一人ひとりが考え、イエスにより深く繋がっていきたいと思います。』