6月に入りました。北海道では最も過ごしやすい、さわやかな季節を迎えました。
どうか、心の中もさわやかな6月の日々を過ごせますことを。
さて、先月当教会に着任されました後藤義信神父様の霊名は、ドン・ボスコです。
ドン・ボスコは、1815年にイタリアのピエモンテ州で生まれ、キエリの大神学校で哲学と神学を学び司祭叙階しました。その後、もっとも貧しい青少年のために生涯を捧げることを決意し教育事業を始め、1859年にサレジオ会を設立、学校事業、社会事業を通じて多くの人々を導いた方です。
先週の主日ミサの後、後藤神父様の歓迎会を行いましたが、今月号(6月号)の「かてどらるの鐘」の巻頭言に神父様の着任のご挨拶を掲載しておりますのでどうぞご覧になってください。
⇒かてどらるの鐘6月号
神父様にお願いして、今日のミサの入堂前にお写真を撮らせていただきました。
霊名のドン・ボスコのように、どうかこれから私たちをお導きください。
今日も後藤神父様は、穏やかな語り口で、分かりやすく主の昇天の意味をお話して下さり、先週、京都教区の大塚司教様から伺った高山右近の話とも合せ、
昔、遠藤周作の「イエスの生涯」を読んだ時に覚えた問いの答えが、数十年経って見えたような気がしました。
後藤神父様のお説教の概略です。
『み心の月を迎えました。皆さんは主の昇天をどの様にイメージしていますか?主の昇天は、地上での使命を終え、父なる神のもとへ帰られたことを表しますが、聖書では昇天と言う言葉は使われず、天にあげられた、と言う言葉が用いられています。昇天に働いた力は神の力であり、聖書はそのことを出来事として事実として伝えています。キリストの昇天は天にあげられて神の右の座についた、人間として神に栄光の状態に上げられ、御父のもとで最高の栄に賛美されている、ことを表しています。そして私たちがいつの日かこの地上の生活を終えるとき、(救いに招かれるとすれば)キリストの昇天によって導かれた天に、私たちも導かれるという希望がそこにあり、今日の聖書のみ言葉の中にある「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束が叶います。私たちは父なる神を仰ぎ、イエスと共に神の国に招かる、そこに希望を置いてこの世の生活を歩まなければなりません。
今日の(聖書と典礼の)集会祈願の祈りをどの様に受け止めましたか?今話したことが祈りとして書かれています、もう一度読み直してみましょう。
「全能の神よ、あなたは御ひとり子イエスを、苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いて下さいました。主の昇天に、私たちの未来の姿が示されています。キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、ともに永遠のいのちに入らせてください。」
キリストの昇天に、私たちの未来の姿が重ならなければ、希望が見えてこない、永遠の命の世界を受け止めることが出来ない。私たちの信仰の行く末をこの祈りの言葉の中で語っています。私たちの信仰は、今日の祈願の言葉がすべて常にあり、現実として祈って生きているのであれば、もっと力強い日々を送ることが出来ます。
現実は、希望を失う事が度々あります、その中でも私たちはキリスト者として、教会の教えを常に心に留めなければなりません。
地上においては、肉の欲、飢えの欲、生活の奢りから解放されるように努めなければなりません。来世において、キリストの光栄に預かる為に、天国に向かって心を向けなさい。
十字架の死を目の当たりにして希望を失った弟子たちは、復活のイエスに出会い、40日間に亘り生活を共にし、教えを説かれ、その教えを通して、イエスの励ましによって大きく成長しました。昇天を前に、イエスは弟子たちを祝福し言葉を残した。その中の「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい」の言葉は、今生きる私たちも、弟子たちを通してその使命を引き継いでいます。
私たちの信仰の中で大切にしなければならないのは、この神の国を、私たちがこの世で実現し、すべての人とひとつになって世界に築くこと、そして最終的にひとり残らず神の国に入ることです。
教会のために働き、教会とともに喜び、教会とともに苦しみ成長する事を基本としなければなりません。それなのに、私たちはしばしばこの大切な教えを忘れてしまうことがあります。教会もまた、様々な課題を背負って苦しむ時期があります、しかし、どんな時でも、どんな激しい波にさらされようとも、キリストは私たちと共にいて下さることを忘れてはなりません。そのことを心にして、希望を見出し、祈り、支え合い、その使命の答え、一歩ずつ前に歩みを進めて行かなければなりません。
主の昇天の出来事は、弟子たちを通して私たちの使命を自覚させることですが、私たちと共に主がいて下さることも決して忘れないことです。
6月の一つひとつの祝祭日を通して、私たちの信仰が更に成長できるように祈りを捧げたいと思います。』