イエスの憐れみと慈しみの心、惜しみなくパンを差し出した少年の分かち合いの心について黙想しましょう。
カトリック北一条教会は、来年の10月8日(土)に献堂100周年を迎えます。
先月、献堂100周年を迎えるための実行委員会を立ち上げ、標語も決まりました。
「次の世代に繋ぐ」 これから1年以上をかけて、次の世代に何を繋いでいくことが大切なのか?
そのことを共同体全体で考え、共有しながら歩みを進めていきます。
後藤神父様が標語を印刷したしおりを作ってくださいました。
今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『先ほどミサの前半で歌われた「憐れみの賛歌」と「栄光の賛歌」の中では、「憐れむ」という言葉が何度も歌われていました。
「主よ憐れみたまえ」と、私たちはどんな気持ちで祈り歌っているでしょうか?
先週「憐れみ」という言葉について説教で触れましたが、今日皆さんと一緒に歌っていて、「憐れむ」という言葉を私たちは何度も何度も使っているのだということに改めて気付かされました。
私たちが「主よ憐れんでください」と祈るときの心情は、「どうか神様、愛の目を持って私達を見て下さい。慈しみの目を注いでください。」という思いだと考えます。まさに聖書の「憐れむ」は、神様の慈しみ、神様の愛そのものを表現している言葉だと思います。今日歌っていて、改めてそのことを皆さんにお伝えしておきたいと思いました。
先週の福音で会衆を見て憐れんだイエスの心が、今日の福音の「パンの奇跡」に引き続いていきます。
「パンの奇跡」は、4つの福音書全てに書かれているお話です。
この奇跡の話は、聖書の書かれた初代教会の時代の人々にとって、非常に大きな慰めをもたらす話として、信仰の原点ともなっていたのではないかと想像します。
初代教会の人々は、キリスト者に対する迫害や様々な誤解の中で生活していました。そのような厳しい環境の生活の中で、自分達の信仰を見つめるときに、私達にパンを増やしてくださった、憐れみを示してくださった、慈しみを示して近付いてくださったイエスのことを思い起こして、またそこから慰めを得て、自分達の信仰を生きていたのだと思います。パンの奇跡はそのような意味で、初代教会の人々にとってイエスの存在を身近に感じることができる物語として、思い起こしては自分達の信仰を見つめ直していたのではないでしょうか。
イエスを身近に感じられる、そこにはイエスの憐れみの心、慈しみの心があったからこそだと感じます。
人々がパンの奇跡を思い起こすときに、ただ単にパンで腹が満たされたということだけではなく、その奇跡をとおして、イエスが自分達に近付いてきてくれたこと、そして慰めの言葉をいただいたこと、そのようなことを思い起こしては、また新たな力を得ていたのではないでしょうか。
5000人という人々が集まった中で、集められたパンは僅か5つだけでした。子供が持っていたパンだとすれば、それほどのボリュームではなかったはずです。イエスは子供が差し出した僅かなパンを見て感謝された、そう聖書は記しています。
私たちがその場に居合わせたなら、その光景を見てどう感じることができたでしょうか?こんなちっぽけな数ではどうしようもない、落胆したのかもしれません。弟子達にもどこかでそのような思いがありました。イエスには、その僅かなパンを用いて、それを変える力がありました。人間の目にはこれほどの物が、いったい何の役に立つのか。そのような時でさえ、小さなつまらないものに見えたとしても、イエスにとってはそれは感謝すべきものでした。そこに、私たち凡人の目と神の目の違いというものが大きく示されているのだと思います。
時々、私は思い起こすことがあります。皆さんと会話をしている時に、神様の力を信じている私たちであったとしても、全能の神様と私たちが口で言っていたとしても、どこかで、神様はこれは私たちの考えだから無理です、というような思いで、そういう言葉を使っていることがあるような気がします。最初から諦めたり、落胆するような思いで、これは無理だろうなと思ってしまうこと。私たちが自分の思いから考える不足に対して、不満を言っているときにでさえ、神ははたらかれていることを私たちは忘れています。その時はイエスを信じていないかのような態度を取っていることもあるような気がします。神は全能である、全能であるということは何でも出来るということで、信じる心が本物であるならば、どんなに小さいことであったにしても、やっかいなことだと考えたとしても、またそれが無駄なことのように思えることがあったにしても、「感謝する」そういう心に繋がっていかなければと考えます。そうしなければ、私たちの信仰は本物になっていかないのではないでしょうか。
聖書の中にこうあります。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ神が望んでおられることである。」(テサロニケの信徒への手紙I 5章16~18節)
でも私たちは、それは聖書の言葉ですと言ってしまい、本当に喜んで感謝して受け取るということが出来ていないのかもしれません。
素晴らしい言葉であったとしても、それがただの格言のようにして使うならば、その御言葉は死んだも同然であるのかもしれません。
聖書の言葉が生きた神の言葉として、私たちが受け入れ、それを信仰として生きることができるなら、私たちの生活もまた少しずつ新しくされていくような気がします。
日々の生活の中で、私だけが何故苦しい思いをしなければならないのか、自分だけが何故損をしなければならないのだろうか、うだつが上がらず我慢する自分自身に、不平不満で一杯になってしまうことがないでしょうか?
しかし、今日の聖書の言葉を黙想していくと、私たちの信仰生活の中で、どんなものをも神が用いてくださると信じることで、信頼と確信が生まれてくるのはないでしょうか。そして、私たちの信頼が欠けているということに気付かされるのではないでしょうか。
パンの奇跡を間近で体験した人々が、イエスを自分達の王になって欲しいと願うことは当然であったかもしれません。でもそれはまた、神の目、イエスの目から見れば、それもまた、この世的な考えでしかありませんでした。イエスはこの世的な考えに翻弄される方ではありません。いつもどんな時でも神の御旨を生きることがイエスの使命であり道でした。聖書の今日の御言葉の最後は、そうしたこの世的な人々の心を知った時、イエスはまた一人山へ退かれたと記されています。
私たちの願いや思いが神に向かったとしても、思い通りに行かないことがたくさんあるという現実を、今日の御言葉は私たちに知らせているのはないでしょうか?
私たちの思いで神様は動くことはないということ。私たちは日常、感動に出会うことがたくさんあります。そのような感動に出会ったとき、私たちの心は燃え、高揚してしまいます。命を投げ出しても惜しくないほどの感動を感じることがあります。でもこれまで何度もそのような感動を体験しながら、その感動が今残っているでしょうか?時間が経つと感動や情熱は色褪せて消えていくということも私たちが経験することです。
イエスがいくら私たちに、この言葉は大切ですと言っても、少しも実態が伴ってこなければ、とても残念なことだと思います。
今日の「パンの奇跡」にある背景を黙想しながら、小さなことにも心を留めて、神のはたらきと恵みに感謝することができるように祈りたいと思います。
そして、いただいた僅かな恵みであったとしても周りの人たちと分かち合う喜びを、私たちが育んでいくことができますように。
私たちが持っている僅かなものであったにしても、それを惜しみなく差し出せる心も大切にしたいと思います。
今日私たちが捧げるホスチアは、ミサをとおして恵みのパン、慈しみのパン、憐れみのパンとなります。そして祭壇上で聖変化したそのパンは、御聖体として私たちをキリストの体と一致させるキリストの命に深く結ばせてくださるものと変わります。
今日一つの食卓、祭壇を囲む私たち共同体が、さらに一つとなって、歩むことができるようにミサの中で祈っていきたいと思います。』