湯澤神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。
【福音メッセージ】 待降節第1主日 A年 2022年11月27日 湯澤神父
✚ Pax et Bonum
兄弟姉妹の皆様
今日のミサから典礼の日本語が変わるので、福音をゆっくり味わう気分ではないかもしれませんが、待降節に入りますのでこの季節の典礼の意味を考えてみましょう。先週、私たちは王であるキリスト、世の終わりを祈念し、世の終わりについての福音を味わいました。今週から、未来から過去へ、私たちは二千年前のキリストの到来に目を向けていきます。
福音の中で、イエス様は「人の子が来る時」と言っています。「その時は、ノアの時と同じである。」ここで、重要な言葉は、「時」です。第一の朗読、イザヤの預言では、「終わりの日」という言葉が使われています。戦争が間近に迫ってきている時、イザヤは、世の終わりの時の到来について語ります。その「時」こそ、救いの時だからです。
第二朗読も見てみましょう。パウロは、ローマの教会に宛てて、「時は近づいた」と語り掛けます。「今がどんな時か分かりますよね。私たちが洗礼を受けた時より、救いの時が近づいています。だから、洗礼を受けた時のように、新たになりましょう。」
この「時」が重要なのは、それは、「到来の時」だからです。今週は、まだ王であるキリストの雰囲気が残っています。しかし、そこにあるのは「到来の時」です。私たちは、「アドベント」という言葉を聞いたことがあります。待降節を表す言葉です。もともとこの言葉は、「アド・ヴェントゥス」というラテン語から来る言葉です。その意味は、向こう側からこちらへ「やって(アド)」「くる(ヴェントゥス)」という意味です。その意味は、「もういくつ寝るとお正月」と待つことではありません。また、努力して引き寄せること、実現させることでもありません。私たちにはどうにもできない「時」なのです。ただ、神様がやってくる、実現してくださるその時を、待つことしかできません。
ところが、私たちは、そのことをいつも意識できているわけではありません。イエス様は、ノアの時の例を挙げています。「人々は、食べたり飲んだりしていた。」つまり、普通に日常生活をしていたということです。この「到来」の時は、日常に起こることです。それが待つことしかできない時を待つということですが、たいていは、すっかり意識していない時でもあるのです。ですから、私たちは「第三の到来」ということを考え、意識する必要があるでしょう。第一の到来は二千年前の到来、もう一つの到来は世の終わりの到来。そして第三の到来です。これも、私たちの日常生活の中で起こります。
第三の到来は、普通あまり意識されませんが、日常生活の中で、父である神が、御子であるキリストが、そして聖霊が、私たちに語り掛けます。いつ、何を語り掛けるかわかりません。待降節を迎えたこの季節、日常生活に起こるこの第三の到来を、考えてみませんか。私たちは、いつ語り掛けられてきてもよい用意ができているでしょうか。
【聖書朗読箇所】
父である神よ、
あなたは救いを待ち望むすべての人とともにいてくださいます。
待降節を迎えたわたしたちの心を照らしてください。
争いや対立が絶えないこの世界にあって、
キリストの光を頼りに歩んでいくことができますように。
集会祈願より
第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ2章1-5節)
アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。
国々はこぞって大河のようにそこに向かい
多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ13章11-14a節)
更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。
あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。
今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。
夜は更け、日は近づいた。
だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。
日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。
酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、
主イエス・キリストを身にまといなさい。
欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
福音朗読 マタイによる福音 (マタイ24章37-44節)
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)
「人の子が来るのは、ノアの時と同じである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
このことをわきまえていなさい。
家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」