レイナルド神父様は、人事異動でイタリア(ローマ)に転勤されることになりました。
北一条教会での最後の福音メッセージをご紹介します。
受難の主日 2023年4月2日 9時ミサ
今日の典礼で私たちは経験した事と感情の間の大きな対比に直面します。最初はイエスがエルサレムに大きな喜びと期待で迎えられる話で始まります。‛ホサナ、いと高きところにホサナ!’と人々は叫びます。イエスは当然そうされるべきでした。人々はイエスをみてたいへん興奮します。
でも、この興奮は今日の朗読をさらに深く読み進んでいきますとショックと恐怖に変わります。イエスが十字架につけられ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫んだとき福音書は最高潮になります。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」そう言ってから「イエスは再び大声で叫び、息をひきとられた」。まさにこのとき全ての会衆は沈黙のうちにひざまずきキリストの死の現実を深く考えます。
一週間の短い間でものごとはこうも変わるのでしょうか。イエスがエルサレムに入られたときに叫び賞賛した人々に何が起こったのでしょうか。どうして会衆はイエスが十字架の刑と死を受け止めることを見過ごすことができたのでしょうか。
この問への重大な答えは私たちが思いもよらないものです。その答えとは、天の父がそれを望まれたということです。神は御心のままに、多くの人々がイエスから離れ、打ち捨て、十字架にかけられる事を望まれたのです。これを理解することが非常に大切です。
最初の聖週間のどの時点でもイエスはその聖なる力を用いて十字架を拒否することができたで事でしょう。しかにそうはなさいませんでした。それどころかイエスはこれから受ける苦難と拒絶を胸に抱きながらすすんでこの週を過ごされたのです。そしていやいやながらでも、後悔さえなさいませんでした。自分のご意思で選び、すすんでこの期間を受け入れられたのです。
なぜ、イエスはそんなことをされたのでしょうか?なぜ苦難と死を選ばれたのでしょうか。それは父なる神の完全な知恵の中に、この苦難と死はさらに大きな目的があったからです。イエスご自身の受難と十字架の刑を用いることで私たちの神聖の完全な手段として、神はこの世の知恵を困惑させることを選ばれたのです。こうして神は最大の悪を最大の善へと変えられたのです。
この事から私たちの信仰のあかしとして、十字架は私たちの教会や家の中央にかけられています。そうすることで最大の悪でさえ神の力、知恵、愛には勝てないといつも思い起すことができるのです。神は死そのものより力があり、全てが失われたように思えるときでも最後に勝利するのです。