2012年5月6日日曜日

分かち合い

今日は地区集会の日でした。
地区集会の最初には参加者全員で”分かち合い”を行います。
主日ミサの福音書を節ごとに順番に朗読していき、
その後、それぞれ自分の心に残った箇所について話していきます。
どうして心に残ったのかという理由などについては、お話されてもいいし、
お話されなくてもいいですよ、とういうスタンスで進めています。
それでも実は正直言いまして、何回やっても”分かち合い”は苦手なのです。
いろいろ聞くところによると分かち合いが苦手だから地区集会の参加を敬遠されるという方もおられるようです。

理由はどうしてなんだろう?と自問自答してみます。
うまく話さなければならないという脅迫観念からでしょうか?
人にいいところを見せたいという潜在的欲求にさいなまれるからでしょうか?
単純に照れからでしょうか?
自分が言ったことに対し他の人はどう思われるのか、
ひょっとしてこんなこと話したら馬鹿にされるのではないかという恐怖心からでしょうか?
いい年して、何年も信者やっているのにそんな程度の理解なの?
と思われたくない自己防衛でしょうか?

わたしの場合、以上のような、そしてその他雑多な、
いろんなことがごちゃまぜになってるせいなのかと思い当たります。

でもイエスの使徒たちを思い出してみると・・・、
彼らはけっして俗にいう”立派”な人たちではありませんでした。
学もありません。職業もエリートではありません。
もの分かりもいいほうではありません。時にはとんちんかんな質問をしてみたり、
ご機嫌伺いなおべんちゃらを言っては見透かされ、何回も間違いを犯したりもします。
その度にイエスに何度もお叱りを受けます。
挙句の果てには、師であるイエスを裏切ったりもします。
イエスが十字架に磔になり、御復活された直後もそんな調子です。
でもイエス様は、そんなこと最初からお見通しだったのですね。

そんなどうしよもない情けない彼らを、何故イエス様は敢えて選び、見捨てずに、
そして最後まで愛し続けたのでしょう?
彼らの弱さはまさに、わたしたち自身の投影ではないかと思います。
そんなことを思うと、少しは気持ちが楽になります。

いつの日か本当の分かち合いが出来る時が来ることを祈り続けます。