2012年5月27日日曜日

武田俊一さんからのお便り

宮古でボランティア活動されている武田俊一氏からお便りが届きましたので紹介します。


北見市社会福祉協議会主催「東日本大震災復興支援フォーラム」における発言要旨

 私は、大震災(3.11)発生から1ヶ月と7日目の4月18日(月)被災地宮古市に入りました。
 当時、青森県八戸市のフェリーターミナルが津波の被害で使えないため苫小牧港出航のフェリーは、青森港の臨時フェリー乗り場を利用して、北海道との往復でした。
 片道19時間の行程です。(8月の第2週から八戸港が再開)
 当初、宮古市は県外からのボランティアを募集していなかったため、我々は隣町の山田町へ行きました。山田町はいち早く県外からボランティアを受け入れていたからです。
 午前6時に起床、昼食のおにぎり(今も続いています。)を作り、午前7時半前に宮古市を出発、
8時半頃に山田町のボランティアセンター(ボラセン)に到着し、受付を済ませて仕事を頂きます。
 瓦礫の撤去、被災住宅の泥だし、畳清掃、食料・衣類の仕分け作業、写真の洗浄等々、
やるべきことは沢山ありました。中でも、写真洗浄は辛い作業でした。家族の写真、旅での
スナップ、卒業アルバム・・・そこに写っている人々達はどうしているだろうかと考えたら、涙が自然と出ました。
 5月に入り、宮古市も県外にも広くボランティアを募集し、我々も「札幌カリタス」で団体登録しました。
 5月一杯は、山田町と両方で活動しました。
 宮古市の活動は排水溝の瓦礫や泥だしが中心でした。忘れられないのは、金浜地区の活動です。
その日は、全国各地から来た総勢200人を超えるボランティアさん達と一緒に、ヘドロで真っ黒になっている排水溝に腰まで浸かり、泥だしを行いました。その他の地区においても、気温が30度を超える中、力を合わせて復旧作業に精を出しました。おかげで、宮古市は夏場にハエなどの害虫の発生が殆ど見られませんでした。
 ボランティア活動で疲れた体や心を癒すのは、被災者から「ありがとう」と、声を掛けていただくその一言です。
私は、二週間の予定で宮古市に来ました。しかし、ある個人宅のボランティアを終えて帰ろうとする我々に、「どうか私たちのことを忘れないでください」と言われた瞬間に、私は札幌に帰る気持ちは無くなりました。
 7月末には宮古も仮設住宅がほぼ完成し、辛かった避難所暮らしから狭いながらも自宅に入れた喜びの顔が見られました。
 その頃から私たちカリタスは仮設住宅の談話室、集会所での活動に移行しました。いわゆる移動カフェです。
全国から集まった支援物資を持って、コーヒーやお茶っこ(宮古弁)を入れ仮設住宅の方々とお話をする傾聴ボランティアです。何も訓練を受けてない私たちが、果たして上手く被災者の人たちと向き合って話ができるかどうか、不安で一杯だった。
 丁度夏休み中だったので、かき氷の機械を持ち込み子どもたちにサービスしたこともあり好評でした。
 カフェを続けていく内、顔馴染みさんが私たちの名前も覚えてくださり、来てくれる人たちが徐々に増えました。
 ある談話室でのこと、午前中からずっと居て一言も喋らなかったご婦人が帰り際に「ありがとう。あなた達ボランティアさんが来てくれているだけで、私は嬉しいの」と言ってくれました。
被災された人たちからも、励ましの言葉を多くいただきました。
(常駐している者として、短期で来るボランティアさんに気をつけていること・・・アドバイス等)
 短期(概ね一週間)で来るボランティアさんを受け入れる者として、到着した日に緊張を和らげることを心掛けています。
 例えば、ボランティアさんは自分は何ができるのか分からず、談話室なり集会所に連れて行くわけです。そこで、着いた日に緊張を解すため私が夕食を作り振る舞ったりします。また、被災者と一緒にコーヒーやお茶っこを飲み、会話をすることなど(日常会話中心に)をアドバイスします。
 特に、自分たちが持ち込み、教える手芸などは、いきなり話しを切り出すのではなく、タイミングを図りながらすべきで、見ず知らずの他人の家に押しかけていきなりセールスするようなことは駄目ですよと話します。