クリスマス・イブから一夜明けて、降誕祭 日中のミサが午前10時から行われました。
感謝のうちにキリストの生誕をお祝いしました。
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『主の御降誕、クリスマスおめでとうございます。
昨日のクリスマス・イヴと今日は穏やかな一日を迎えられそうです。好天に恵まれるクリスマスになりましたが、一昨日までは大変な雪、50年ぶりの大雪だそうですが、真っ白な雪にすっぽりと包まれた北海道、そして札幌です。近くの郵便局に行こうとしましたが、歩道は歩く人がいないせいか歩くところが消えてしまい、車道を歩くしか方法はありませんでした。昨日、今日と除雪が進んで道路は綺麗になったと、今朝、来られた方に伺っています。
クリスマスをお祝いするために、初めて教会に来られた方がおられるようです。ともにクリスマスを祝い、ともに祈ることを感謝いたします。ようこそお出でくださいました。
今朝、御聖堂のドアを開けて一歩外に出て空を見上げました。月がくっきりと目にとびこんできました。久しぶりに見る夜明けの月にみとれていましたが、よくよく空を見ていると星もいくつか輝いているのも気づきました。寒さを一瞬忘れる久しぶりの朝焼けの空でした。星も出ているので、あわてて部屋に戻ってカメラを持ち出して、外に出て写真を記録しました。クリスマスの喜びをカメラに写すような気分でした。
イヴの大雪の後の穏やかな天気。昨日の夜にミサに来られた方に伺ってみますと、自宅から4時間かかって教会に来ました、そう言う声も昨日は聞かれました。歩くのも、車で来るのも大変という中、私たちはこのクリスマス、主の降誕を祝っています。そして、キリスト教徒ではないけれど「メーリークリスマス」と乾杯した人も昨日は多かったのではないでしょうか。また、今日もそういう乾杯をする人がたくさんいると思います。
日本ではいつからクリスマスをお祝いしているでしょうか。考えたことがあるでしょうか。少し調べてみました。日本では室町の戦国時代にまで遡ります。1552年に現在の山口県山口市の教会で降誕祭のミサを行ったという記録が残されています。その記録が日本で降誕祭を祝ったという証しがあります。当時はイエスの誕生のことを「ナターリス」という呼び方をしたそうです。ナターリスというのはラテン語。そしてラテン語で「誕生」という意味だそうです。当時のキリシタンは「ナタラ」という呼び方をしていたそうです。こういう記録が残されています。日本に来ていた宣教師フロイスという人が手紙をしたためて、自分の国へ日本での宣教の様子をいろいろ書いています。そうした中にも度々、クリスマスのことが表されるようになったそうです。その記録の一部の文書はこういう表現がされています。『告白し、聖体拝領するために八里ないし十里の遠方から来ることもいとわず、篭や馬に乗って運ばれることも出来たのに、一同はその信心、信仰から徒歩でやってきたのである。』こういう表現、記録が見られます。八里ないし十里の遠方、今の時代は車で、タクシーで駆けつける状態ですが、随分長い距離を歩いて12月の寒い中、教会に来てクリスマスを祝った当時のクリスチャンの信仰が偲ばれます。でも、今年の大雪を考えると私たちも皆さんもきっと何時間もかかってやって来たということは、当時の人たちに通じるクリスマスを昨日、迎えていたのではと思っています。『信者の人たちはミサに与って幼子イエスの誕生の福音を喜びのうちに聞いていました。ミサの後、集めたお金で 食事の用意をし年長の信者が給仕をした。』こういう表現も記録の中に見られます。それはきっと私たちの現代のクリスマス・パーティの最初の状況を表しているのかもしれません。
幼子イエスの誕生の福音の喜びを聞いていた。今日の福音は皆さんに喜びをもたらす福音の内容だったでしょうか。ちょっと今日のヨハネの福音は、「はじめにことばがあった。」との表現から始まりますが、ちょっとむずかしい。神学的、哲学的な内容の福音になりました。昨日のクリスマス・イヴの福音はそういう意味では、わたしたちが良く絵本などで見ているクリスマスの内容をしたためた福音が読まれています。皇帝アウグストゥスから登録をせよとの勅令がでて最初の住民登録が行われることになりました。当時の人々が住民登録をするために自分の出身地まで行かなければならなかった。マリアもヨゼフもダビデ家に属していたのでガリラヤの町ナザレからユダヤのベトレヘムというダビデの町へ上って行った。こういうお話が昨日のイヴの福音の内容です。ですから、皆さんが小さい頃から絵本などでクリスマスのお話を聞いた内容は、昨日のイヴの福音の中で語られていることです。そういう登録をするためにマリアとヨゼフはお腹が大きい状態でしたが旅をすることになりました。そして、その旅の途中で幼子イエスが誕生することになったというのが、昨日読まれたルカの福音のお話です。
クリスマスをどのように感じ、どのように祝うかはその時代時代によって大きく変わってきているようです。聖書の物語からつくられたクリスマスに飾られる馬小屋、私たちの教会もそちらに飾られていますが、これは聖書に書かれている内容を想像しながら造られた飾りです。私たちは教会で一般的に馬小屋という表現をとっています。飼い葉桶に寝かされた幼子の傍にはお父さん、お母さんであるヨゼフとマリアが、その幼子を見守っているのが馬小屋の光景になります。何故、神の子イエス・キリストは馬小屋で産まれたのか。クリスマスを祝う時にそうしたことは忘れてしまってお祝いをしているような気がしますが、それも昨日のイヴの福音の中で語られていました。誕生間近にして旅をしなければならなかったマリアはベトレヘムに来て宿屋も無く、夫のヨゼフは慌てて準備をしようとしたのですが、見つけたところは暗く冷たい馬小屋であった。そこは暗くて不衛生なところ。貧しい場所で神の子が産まれるということは誰が想像したでしょうか。不衛生、汚くて暗くて寒くて、そこに幼な子神の子が誕生するはめになります。旅の途中であったということは、大変なことでもあった。私たちはそうしたことをクリスマスに思いを馳せながら、私たちの社会、私たちの周りを見つめたとき、同じような状況におかれている人がたくさんいるということを気づかされます。難民と呼ばれる人たちはまさにそういう状況の中に、今もおかれているのではないでしょうか。そういう状況を知ることによって、このイエスの誕生はさらに大きな感謝と大きな喜びになるような気がします。そして、私たち一人ひとりがそのことを深く見つめること、理解することによって、私たちの周りをさらに見つめる機会にもなっていきます。
このクリスマスの一日、家族の中にある悲しみ苦しみを抱えながらも主の降誕を迎えている人はたくさんいると思います。私たちの教会の中においてもつい最近、家族の大切な一人を亡くされた方がいます。悲しみを抱えながらも主の降誕を祝う人たちが、そういう状況の中で本当に周りにたくさんいるのではないでしょうか。病気の人も自分の苦しみと闘いながら、主の降誕を祝っているでしょう。
外へ目を向けてみるとつい先日、新潟県の糸魚川市で大火がありました。突然の出来事で本当に驚きながらも、ひもじさの中で今日のクリスマスを迎えている人がいると思います。さらに外国に目を向けると、テロに怯える映像がたくさん私たちに見えてきます。そして、それぞれの国の中における内戦。紛争が続いていて何百万人という難民が私たちの世界にはいるという現実もあります。
父なる神は幼な子を通して私たちの歩むべき道を示そうとしているのではないでしょうか。クリスマスを祝いながら私たちの現実を見つめ、感謝と喜びのうちに、私たちは周りの人と本当に平和を築いていかなければならない。そんな思いが強くされます。地には平和が訪れますように。御心の適う人に幸せがきますように。天使の賛美の声が夜空にこだましたと聖書は告げています。その天使の賛美の声、祈りが私たちの心からの祈りに重なっていきますように。そして、隣人と世界中の人々の心に私たちの祈りが届き、世界中の人の幸せに繋がっていきますように。喜びのクリスマス、イエス・キリストの誕生を語る聖書のお話は、大変な家庭の姿を描いています。それは旅の途中で我が子を出産しなければならないという大変な状況でもありました。クリスマスはいっけんロマンチックな物語のように捉えらる人が多いと思いますが、けっしてロマンチックな夢物語ではありませんでした。神は現実のドロドロした生活をしっかりと受けとめてくださっているというのが証言でもあるような気がします。その神の愛、キリストの誕生を祝うのが私たちの本当のクリスマスになるのだと思います。
クリスマスそれは、父である神の心からの感謝を捧げる日になるのではないでしょうか。今日、私たちはもう一度心に留めながら、私たちの幸せに感謝し、そして私たちの幸せが周りの人にも分かち合うことが出来ますように。そうしたことを祈りながらこのミサを捧げ、また 新しい1年もその幸せに繋がっていくように、ともに祈りたいと思います。』