2017年8月14日月曜日

年間第19主日

この日の福音では、「パンの奇跡」のすぐ後の出来事として、自然界の嵐が語られています。

夏休みで帰省中の蓑島神学生が聖体奉仕をされました。


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『毎年の事ですが、8月に入って高校球児の熱い夏が始まっています。野球ファン、特に高校野球のファンにとっては、たまらない高校球児の姿ではないかと思います。汗にまみれ白球を追う球児の姿に、私も青春そのものを 見て感動したりしています。テレビ画面に釘付けになっておられる方もいるかもしれませんが。
 今日の朝6時には、陸上の世界選手権の100メートルリレーで、日本のアスリート、若者たちが銅メダルを獲得したニュースが流れてきました。テレビ画面では観衆の大きな嵐がどよめくように聞こえてきますが、金メダルが確実と見られていたジャマイカのウサイン・ボルトという選手が足の故障で棄権しメダルを逃した。そのせいもあって日本がメダルにくらいついたと言えるかもしれませんが、日本の陸上界の若い人たちの力が、どんどん世界のレベルにまで達していることは、今年の陸上界をテレビで観ていても私自身感じるところでした。

 テレビの画面では熱烈なファンの嵐が呼び起こされていますが、今日の聖書では自然界の嵐が語られています。先週は「主の変容」の祝日の日曜日でした。この「主の変容」は移動日になりますので、必ずしも日曜日にあたるとは限りませんが、今年はたまたま日曜日に重なって「主の変容」を先週祝いました。そのために、普通であれば先週の日曜日には、5000人の人にパンを分け与える「パンの奇跡の話」が語られるところでしたが、その話は消えてしまって、「主の変容」のみ言葉を私たちは聴いたわけです。ですから今日の聖書の話は、通常「パンの奇跡」の後に語られるお話しが今日のみ言葉になっています。ですから、今日のみことばの最初は、一言そのことが分かるようなかたちで触れられています。「人々がパンを食べて満服した後」というみことばが語られているわけです。パンの奇跡の内容は弟子たちの想いと、イエスの思い違っている、そういう内容で展開していました。弟子たちは群衆を解散させてほしい、もう夕食の時間でもあるし、大勢の人に食事を与えることは難しい。だから解散させてくださいとイエスに申し出たのですが、イエスはそうではなくて、パンをかき集めて奇跡を行い、5000の人に満腹させるために食べさせたという話しになりました。

  今日の「パンの奇跡」の後に続くみ言葉を私自身いろいろ受けとめ考えます。私自身は今日のみ言葉で、イエスのひとつひとつの行動、行為、言葉にいくつかの注目するポイントが出てきます。一つは強いて舟に弟子たちを乗せて群衆と引き離していること。何故イエスは強いて弟子たちを群衆と引き離したのか。また、イエスと弟子たちもいっしょに離れた場所に動き始めることがとても気になる箇所です。もう一つは、イエスは一人山に登って長い間、夕方まで祈りを捧げます。イエスは弟子たちから離れて一人祈ったこと、何故一人で祈ったのか、どんな祈りを捧げたのか、そんなこともとても気になる内容です。さらに、舟に乗っている弟子たちのところに湖の上を歩いて行かれた。それは不思議なことですが、水の上を歩いたイエスの姿もまた、とても気になる特別な出来事として考えます。そして、最後のひとつは、それを見たペトロがイエスの呼びかけに従って水の上を歩こうとした。だけれども、最初は歩いていたはずなのに、突然嵐の風に感じいって気付いた。そのことに心が向かったら沈みかけた。 自分の不信仰のために溺れかけたという内容が繋がっていきます。そういうイエスと弟子たちの行動のひとつひとに特別な意味があるのだろうと、黙想になってしまいます。
  今日の第一朗読では自然の山が舞台となって、激しい地震や風が起こったことを語っています。自然の嵐、出来事。今日の湖の嵐に繋がるような話しが、すでに第一朗読で語られていた共通点も見えてきます。私たちが生きるこの自然界には、常に私たちが予想もできないことが起きてきます。そして今日の福音では湖の上で恐ろしいの嵐の物語です。人生の嵐も考えられます。私たちはそういった人生の嵐の前では、どんなふうに、どのように自分の信仰を見つめているでしょうか。自分の信仰を生きているのでしょうか。そういうことも今日の聖書のお話を通して考えることが出来るようです。

  イエスは一人で祈るために敢えて弟子たちと離れて祈ります。敢えて弟子たちと離れた内容が語られています。私は、「敢えて」という内容がますます気になるかというか、どうしてそのようにしたのだろうかと気になります。そしていろいろなことを考えます。一人で祈られたイエスの祈りはどんな内容だったのか、どんな祈りだったのか。弟子たちから距離をおかれたということは、そこにどんな意味が隠されているのだろうか。これまでずっと共にいたイエスと弟子たちであるのに、このときは離れた。そういう時間を過ごしている、その内容がとても気になります。
 そして、弟子たちの信仰、不信仰という話しが続きますが、「パンの奇跡」のときにおいても、また湖の上を歩かれた主の姿を見ても、後においては弟子たちは信仰告白を常にしていきます。これまでもイエスの奇跡を目の前にして、弟子たちはその驚くべき出来事の前で神の力、イエスの力を思い知って信仰告白を何度もしてきました。先週の「主の変容」の場面においても、ペトロガ信仰告白したことを私たちは思いおこすことができると思います。そんな弟子たちの姿、そしてそんな弟子たちの信仰をイエスは常に見つめていた。その危なげな、迷ってしまいそうな信仰を常に受け入れながらも、弟子たちを強め励まし、神の国、神の力を教え続けていた。  イエスが一人祈るその姿は、もしかすると近づいてくる、エルサレムに向かう、十字架に繋がるご自分の道の使命を祈っていたかもしれない。この時期、遠からずイエスはエルサレムに向かい、受難と十字架の道に辿り着こうとしています。そういうことを想像することができるなら、その前表としていずれ自分は弟子たちと離れざるを得ない。そういう心境もあって、このとき一人山に登って弟子たちと離れて祈られたのでしょう。そして弟子たちはイエスと離れている中においても、共にいるイエスを感じなければならないなずであったのに、  共にいるイエスを忘れて常に不安な状況になってしまう、まだまだ信仰のおぼつかない弟子たちの姿があらわになるような気がします。 

  私たちが信頼する神に心を向けるとき、神の慈しみが見えてきています。感じられます。イエスの言葉にも慰めを見いだし力を頂くことができます。でもそれは神に信頼し、イエスに信頼し心を向けて祈っているとき、そのときは本当に神の慈しみの中に感謝の気持ちが見出せます。不安もそうしたときにはほとんど感じないで  神への信頼から力を頂いているのだと思います。
  パウロが話しています。「だれがキリストの愛から私たちを離れさせることが出来ようか。」(ローマ8:35)神との信頼がはっきりと掴めているときにはまさにパウロの心境に繋がっていきます。回心したパウロの信仰もそういうふうにして、かつてとは全く違った形で自分の信仰を精一杯、命をかけるくらい生きようとしていきます。
 今日の第二朗読でもパウロの言葉がこのようにありました。キリストは万物の上におられ永遠にほめ讃えられる神。まさに信頼がゆるがない信仰を持つパウロの言葉がこうした言葉になってきます。
  一人山に登りただ一人祈られた、聖書はそう伝えてきます。イエスのいない舟に乗った弟子たちは、陸から少しづつ離れて行く中で風を感じ、波が段々と強くなっていくうちに、舟が揺れはじはじめたときに不安を感じています。波と戦っている舟は言うまでもなく私たちの教会を指すかもしれません。そして私たち一人ひとりのこの世での人生、そうしたひとときを表しているのかもしれません。舟の進行が妨げていると、波は悪のシンボルのようにも感じます。誘惑のようにも感じます。またそれは私たちが直面する困難であり不安を誘うものとしての嵐につながっていくような気もします。教会に対する信仰と信頼を揺るがすことは、今の私たちの社会にも教会にも、けっしてないわけでもありません。私たちの教会の中にも時には、困難を見いだすこともあります。そしてそれを作ってしまうこともないわけではありません。
  そういう中で私たちが直面してくる困難、不安、嵐。揺れる心でもしキリストを見たとしても、もしかすると弟子たちのように幽霊としてか目には写らないのかもしれません。不安や動揺や心を騒がせるような状態では神さえも見いだせない、見つけられない。突然のようにもし地震が起きたり嵐が起これば、神の世界を見失って慌てふためくのが私たちではないでしょうか。この頃は時々、日本でもよく地震が起こっています。北海道でも何度かありました。震度1であればそれほど動揺することはないかもしれませんが、テレビのニュースで震度3などと報道されると、治まってからでも心が落ち着かなかったりします。動揺するのは弟子たちだけでなくて、私たちも同じようなことがいえる。奇跡の前で感動もし、力強い信仰告白も何度もしてきた弟子たち。それは私たちの信仰の体験の中で、神の慈しみに何度も感動して、信仰告白をして、祈りを捧げてきたのと同じかもしれません。

 私たちの信仰、困難や嵐に立ち向かわなければならない私たちの信仰の中で、私たちは神を見失うことのない状態で信仰を生きているでしょうか。神に信頼をよせているでしょうか。そんなことも今日のみ言葉で考えさせられます。信仰は希望や平和を私たちに与える機会にもなっていますが、私たちの信仰はただ頂く恵みを生きるというものではないはずです。信仰は人生の嵐や不安の中で、迷い苦しみながらも成長するものであることに、気付いていきたいと思います。ただ恵みを頂く信仰ではなくて、迷ったとき、苦しみにあったとき、神が一瞬見えなくなったとき、そうした試練をとおして、私たちの信仰を成長させなければならないものだと思います。私たちの日常におこる動揺から神から目を離すことなく、そしてペトロのように水に沈んでいくような信仰ではなく、もっともっと神に心を向ける努力をしていかなければと、今日そういうみ言葉を聴かされているような気がします。
 旅する教会でもある私たちの信仰。そして人生を考えるとき、予測出来ない嵐のような人生の途中で吹かれる風があります。危険な波も寄せてくることがあります。そうしたことを予測したり、戦うことは常に私たちの心の中に覚悟として持っていなければ。その嵐に勝ったときには、すぐにも神から目をそらす信仰になってしまうような気がします。どんなときも強い信頼を持って神に心を向ける信仰を私たちは願っていかなければならないと思います。今日もまた、そのことを私たちの祈りとして、教会の祈りとして捧げながら、主のご聖体に近づきたいと思います。』