2017年8月6日日曜日

主の変容

72年前のこの日、広島に原爆が投下された8時15分に教会の鐘楼で「平和の鐘」が鳴らされました。犠牲者への追悼と平和のために祈りましょう。

ミサの中で二人の子供たちの初聖体がありました。この日のために夏休み返上で準備をしてきました。おめでとうございます!


ちょっと緊張気味かな・・・


この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。


『夏も真っ盛りという8月を迎えています。九州の豪雨災害、世界中で起こるテロ、つい先日の北朝鮮のミサイル発射など、私たちの毎日を不安にさせる出来事が続いています。また、国を代表する政府も混乱する中、8月6日の今日、広島は原爆投下から72年目を迎える夏になりました。
新聞の記事で見ましたが、今年新たに5,530人の亡くなった人の名前が追加され刻まれているそうです。今もきっとこの時間、式典が続いていることだと思いますが、名前もわからないままの人を含めると30万8,725名の方々の死没者名簿が今年も納められて式典が進められているようです。想像を超えた死者の数です。私たちは毎年今日の日を迎えて、今日だけは少なくともそのことに心を寄せて、平和の願いを祈りに込めてミサに与る方も多いかと思います。
昨日はこの北一条教会において平和講演がありましたが、日本の教会では平和旬間として15日の平和祈願ミサまで、平和を考える期間が設けられています。平和的に利用するという名目で使われている核、原子力の事故がいまだに収まらないというのは誰でも知っていることです。私たちも歯がゆい思いをしていますが、今日は犠牲者に祈りを捧げながら平和のためにも祈っていきたいと思います。

さて、福音朗読では「天の国」のたとえが毎日曜日ずっと続いていましたが、今日のみことばが伝える内容はガラッと変わって、「変容」のお話になっています。「主の変容」の祝日を迎えています。主の変容の話は、4つの福音書のうち共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書でその出来事が語られています。この3つの福音書に共通することは、変容の出来事の前にペトロの「信仰告白」が記述されており、これには非常に大きな意味があるのではないかということを聖書学者たちは気付いています。変容の前に、弟子の一人ペトロが「信仰告白」をしている、その後で主の変容が起こっている。ペトロの信仰告白と何か繋がりがあるのではないか、ということが解釈上考えらえます。
変容の出来事の少し前には、洗者ヨハネがヘロデ王によって殺されています。そしてそのことを含めて、イエスの噂はどんどん広がっていっているようで、色々な人が噂をしています。聖書では、イエスのことを「洗者ヨハネではないか?」「予言者エリヤではないか?」といった、そういう噂もあったということです。イエスはそのような噂を弟子たちから報告され、イエスは弟子たちに問いかけます。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」この質問に逸早く応えたのがペトロです。「あなたはメシア、あなたは生ける神の子です。」と真っ先に応えたのです。その後に、今日の変容の出来事が起こったということのようです。

イエスは、ご自身の栄光の姿を弟子たちに見せた後に、やがて訪れる受難と死を打ち明け、さらに三日目に復活するということも弟子たちに話します。この出来事、そしてイエスが弟子たちに自分の将来について話した後、聖書の流れはこれまでとは大きく変わっていく内容になっています。エルサレムへと向かう受難の道へと進んでいきます。
主の変容の姿を間近に見て、弟子たちは驚き、同時に終末の素晴らしい姿をイエスから感じ取ります。特別に選ばれた三人の弟子たちは、ユダヤの思想を回顧したことでしょう。出エジプト記で、モーセが山で神と出会い、山から下りてきた時、白く輝いており、神から十戒を授かったという過去の言伝えを改めて思い出していたのではないでしょうか。今日の第一朗読においても、人の子が現れて、その変容の姿を記しています。モーセもそのような出来事に遭いました。予言者もそのような変容の出来事を語っていました。ですから、弟子たちは過去に聞いてきた出来事とイエスの変容を重ね合わせていたのだと思います。

私たちの思いから遥かに超える栄光の出来事です。私たちから考えると現実離れしたものというようになってしまうかもしれません。でも、この弟子たちが体験したことは、現実から遠く離れたところにある輝きではなくて、現実を輝かしめていることが神の栄光であるというように、考えることはできないでしょうか。

イエスの十字架と復活の出来事は決して離れたものではなくて、切り離すことはできない結びつきを持っています。イエスはこのことを変容の直前に弟子たちに話していました。聖書には「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。・・・・人の子は父の栄光に輝いて天使たちと共に来る・・・・」とあります。
日常的な現実を超えた体験をした弟子たちでしたが、イエスを信じた弟子たちにとって決してそれは驚くべき体験ではありません。限界を超えたかのような体験ではありましたが、信仰を支える力としていった弟子たちではなかったでしょうか。私たちに、この変容の出来事はどのように映っているでしょうか、そして捉えることができるでしょうか。
私たちの信仰の支えとなるような出来事として捉えることができるならば、それは素晴らしい幸いなことになると思います。
弟子たちにとって、この幻のような体験に意味があり、みことばがありました。今日のそのみことばを私たちも聞きました。
「これは愛するわたしの子、わたしの心に適う者。これに聞け」みことばが天から聞こえてきたとあります。弟子たちにとっては、その天からの声もイエスの洗礼の時に聞いた声と同じみことばであるということを心に留めたのではないでしょうか。

時代と場所を超えて私たちにも迫り語ってくる神のことば。弟子たちにとってこれから苦難が迫ってくるのですが、この栄光の出来事は、現実に力と勇気、さらに希望を与える出来事でありました。私たちの信仰においてもこの出来事が、慰めや希望に繋がっているものでありたいと思います。
今日の変容の出来事を黙想しながら、私たちにとっても希望や励まし勇気となる、そうした理解のもとで受入れられるよう祈りたいと思います。

今日このミサで、初聖体を受ける二人の子供がいます。子供たちは夏休みを返上するように集中的に準備を進めてきました。昨日は「赦しの秘跡」の勉強をして心をきれいにしています。そのきれいな心の中にイエス様が訪れようとしています。お二人の初聖体に神様の祝福を皆さんと共に祈りたいと思います。』