毎年この一年の最後の日曜日に「王であるキリスト」を私たちは祝います。
来週の日曜日からは、いよいよ待降節にはいります。
この日の後藤神父様のお説教をご紹介します。
『イスラエルにとって「王」とは、どんな人物がふさわしいと考えていたのでしょうか。今日の福音では、イエスは本当に「王」なのかどうか問われる内容となっています。
その疑問は、誰が考えてもおかしくはないことで私も感じています。当時、イエスの時代にもし生きていたとしたら、私もきっとイエスの話を聞きながら、特別な人だとは思うでしょうが、イエスが王なのかどうかということを考えたに違いありません。
ピラトは私たちに代わって、直接イエスに尋ねています。「あなたは、本当にユダヤ人の王なのか?」と。それに対してイエスは傍にいる人たちがまったく想像もつかない答えを言われました。「わたしの国は、この世に属していない。」
イエスのこのような答えを誰が想像したでしょうか。そして、そのイエスの答えはどのような意味を持っているのだろうか?と誰もが戸惑ったのではないでしょうか。
王の概念、国の概念、それぞれ人によって考えがあると思いますが、国や王という存在を超えて、「この世に属していない」という答えは、きっと当時の人々にとっても戸惑うばかりの答えではなかったかと想像します。
旧約のイスラエルの歴史をみると、ダビデによって国家が統一され、王が誕生することになりました。「王」とは、神に任ぜられたものであり、主との契約によって、油を注がれたもの、そしてその権能を受けるという、この世の支配を表すものでした。このような考えを持つ人たちに対して、イエスの答えは「わたしの国は、この世に属していない」、当時の人々にとっては理解できないイエスの言葉であったと思います。
今日の福音のピラトとの問答の最後に、「わたしは真理についてあかしをするために生まれ、またそのためにこの世にきたのである」と、イエスは堂々とピラトの前で宣言しています。真理のために命をかけたイエス。真理にそって常に生きたのがイエス。私たちは聖書をとおして、イエスの生き様を見ています。確かにイエスは妥協することなく真理のために常に歩んでいました。そして真理のために命を捧げました。
真理のために私たちも生きようとしています。でも真理のために命をかけるとは実に難しいことであります。私たちの心を動かしているのは、多くの場合、真理を求めていながらも、現実は真理から離れてしまうことも多いということ。
考えてもみてください。皆さんは真実を生きていますか?今何を一番大切にしておられますか?大抵の場合、真理ではなく別なものになっているような気がします。その別なものとは何でしょうか?
ある人は自分の欲望であり、自分の野心である。ある人はお金であり、また快楽であるかもしれません。いずれにせよ、自分を満足させてくれるものに心が向かうことがあまりに多いのが私たちの現実ではないでしょうか?
真理を生きる。口で言うほど簡単ではないのが誰もがわかっています。そのようにして考えてみると、ローマ皇帝の命令に従って、ユダヤに赴任し、その地方を統治するピラトという人もまた、私たち同じように真理とはほど遠い世界に生きているといえるかもしれません。ですからピラトだけが責められるものではなくて、ピラトももしかすると、私たちと変わらない、一人の人間であったかもしれません。
イエスをピラトの前に引き渡したユダヤの祭司長や長老、律法学者たち。彼らもまた真理から離れてイエスを突き出しました。彼らが命をかけて守ろうとするのは、自分たちの権威を揺るがない確かなものとすることであって、それはまた自分の出世や繁栄であったかもしれません。
自分の権威を守るためであれば、偽りも平気なのかもしれません。自分の望む目的を実現するために手段を選ばなかった彼ら。彼らの心の中にはイエスを亡き者にしてもかまわないと、そういう気持ちさえ現れ出でています。恥ずべき行為も厭わず実行してしまう、考えてみれば恐ろしい状況にまで追いやっていたのが彼らの欲望でもあった。それはまさに真理からは程遠い自分がそこにあったということ。私たちの社会で起こっている犯罪はそういう人間の心から起こっていることが多いのではないでしょうか。
聖書をよく読んで黙想していくなかで、ローマ総督のピラトは、ユダヤ人の宗教や信仰上のもめ事には関心がありませんでした。政治には関心があっても、宗教上の問題には関心がありません。国を持つということは「王である」とピラトは考えます。それは体制に反対する政治的な活動家に繋がっていく。そしてピラトにとっても政治的な野心を持つ人であれば、自分の利益に敵対する存在にもなってくるイエスでもあったということ。
自分が不利になれば黙ってしまう。妥協するピラトも真理から目を逸らしていました。真理に従えばユダヤ人の暴動が起こり、自分の地位や権力も危うくなると、自分の良心の声に耳を塞いでしまったピラトの姿が想像されます。
ピラトにしても律法学者たちにしても真理とは程遠い生き方をしてしまったということです。
イエスはそのようななかで、今までの状況を全く変えようとする「真理の王」であったということが見えてきます。真理をあかしするために来たイエス。イエスが見つめているのは神の世界です。そしてそこに命の全てを賭けています。
「王であるイエス」は、この世の王でないことは確かであり、イエスの使命はただ「真理」をこの世にあかしすることでした。
イエスは私たちをこのように招きました。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と。イエスに従おうとする私たち信仰者。私たちはまた、一人一人は「神の民」であるということも自覚しています。そういうなかで真理の神に遣わされたイエスに私たちは本当に従おうとしているのかどうか。私たちは真理から遠いものに心を向けて生きているといえるのかもしれません。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」という言葉を、私たちの心の中にいつも持ち合わせているでしょうか。
イスラエルの人々にとって、ダビデの王から始まるこの世の王には失望しながらも、主こそ「真の王である」という信念は根強く生き続けていたようです。理想のメシアの到来を待ち望む人は多かった。そういうイスラエルの歴史を見つめながら、私たちは今、待降節に向かっています。新しい典礼の一年を迎えて、幼子の到来である待降節をまもなく迎えます。
今日「王であるキリスト」の祝日を迎えて、改めて、王であるキリストを讃えて、神の計画の実現のために祈り、そして歩む決心をしていきたいと思います。』