2018年12月16日日曜日

待降節第3主日

この日のミサは勝谷司教が司式され、ミサの中で行われた堅信式では20名の方が堅信の秘跡に与りました。

堅信式

後藤神父様から記念品のお渡し

堅信のお祝い茶話会

勝谷司教のお説教をご紹介します。
10月に参加されたシノドスのお話でした。

『「私たちはどうすればよいのですか?」という群衆のヨハネに対する問いかけ。
毎日の生活の中で、「どう生きたらよいのか?」という指針を示してもらいたいという願いは、決して当時の人たちだけではありません。
現代社会にあって「私たちはどうすればよいのか?」という問いかけは、声なき人たちの声となって、常に教会に問い掛けられているものです。そしてそれらは、答えを出すのが難しい。また、いろいろな立場の人がいて、いろいろな意見があって、そこで統一する意見を出すことが難しい問題も多々あります。
現代社会にあっては、複雑で多岐にわたる問題が山積しているなかで、常に教会がそこで、教会の在り方が問われているわけです。

10月に、26日という長い会期で世界代表司教会議「シノドス」という会議が開催されました。日本の司教協議会を代表して私が行くことになったのですが、それは何故かというと、私が司教会議のなかで「青少年部門」を担当しているという理由からです。そして今回のシノドスのテーマが「青年」だったのです。ただ、ご存知のように、昔私も現場で青少年活動に長いこと携わっていました。しかし、司教になる前となってからでは、ほとんど札幌教区に関わりを持つ青年はいなくなってしまいましたし、立場上、関わりが少なくなっていましたので、どういう役割が果たせるのか不安でした。
しかし、今回のシノドスに行ってみて、いろいろな発見がありました。前回のシノドスは、そのテーマが重要ということで、通常総会の他に臨時総会が開かれ、2回に渡って同じテーマ「家庭」というテーマで、このシノドスが開催されました。そしてそこで扱われたのは、いわゆる教会で問題とされている「家庭」、つまり離婚して再婚した人や、あるいは正式に結婚しないでシングルマザーの状態になっている人とか、について話し合われ、それに対する意見が闘われて「教会はもっとはっきりと何か言うべきだ」という人たちもいて、そのような議論は皆さんもどこかで聞いたことがあるかと思います。
もう一つは、性的マイノリティ「LGBT」と言われる人たちについて、シノドスではそのような言い方も避けて、セクシャル・オリエンテーション(性的指向性を持った人たち)という言い方をしています。彼らもかつての教会の教えでは、その存在自体が悪であるかのように、そのような指向性を持つことは悪魔の業と、絶対に認められないものとして考えられていました。最近の心理学や人間学の発達によって、その人の責任によらず生まれながらにそのような指向性を持った人たちがいる、そのような人たちが悪であるとか、そうであるはずがないわけです。では、そのような人たちをどう扱うのか?明確な答えを示せないまま終わったのです。


今回のシノドスはどのような形で行われていったのか、このシノドスの形態が非常にユニークなものであったので、それについて私たちはじっくり受け止めることが大事なので、そちらの話をします。
今回のシノドスは「若者と共に、若者が持つ喜び、希望、夢、望み、そして召命の選択」について、自由に分かち合う場となることが強調されました。今回の会議の特徴は、青年に寄り添い、その声に耳を傾けることである、ということが何度も何度も強調され、実際に通常は司教や枢機卿だけが集まって話し合いをするのですが、今回はこの話し合いの本会議と分科会の全てに世界から集められた青年たちが参加し、最後の投票権はないのですが、自由に発言することが許されていました。ですから今回は「青年について語るシノドス」ではなくて、「青年が司教に対して語るシノドス」と言った方が正確かもしれません。そしてこの本会議の土台となる討議要綱(討議のたたき台)は2年を掛けて準備され、各国の司教団をとおしてなされたアンケートについても実際に青年に答えてもらうようにというただし書きが付いて徴集されました。しかし、それについては以前にも話したように、日本全国に配られたアンケートに答えたのは皆、大人でした(笑)。青年たちではなかったのです。
しかし、この世界中に向けて青年から徴集するようにと言われたアンケートのみならず、インターネットを通じて全世界から10万の回答が寄せられました。さらに3月に開催されたプレシノドスにおいては世界中から集められた300人の青年たちが討議し、そして発題されたその意見書をベースにして作られました。
このような形でまず徹底的に若者から聞き取るという形で行われたのですが、オープンしてまず私たちが直面した問題は、ご存知のように児童に対する性的虐待の問題です。多くの青年たちがこの問題で、教会から離れていってしまいました。それに対する厳しい意見もたくさん寄せられていました。まず、この問題に対して教会が真摯に謝罪するというところから始まりました。そして参加した青年たちに向かって、これまで教会がふさわしい対応をして来なかった、今後透明な形での対応をしていく、という姿勢が何度も強調されました。

全体会の後で、毎週後半は分科会に分かれて討論しましたが、私が参加した分科会では、今言った問題、結婚の問題と性的マイノリティについての問題について、保守的な司教から教皇様に対する批判がどんどん出てきました。この問題についてフランシスコ教皇が明確な指針を表明していないというものでした。だから今回のシノドスではそれをはっきりと打ち出すべきだ、と追及していました。
しかし、会議が進んで今回のシノドスの方法論が違うと、何か結論を出すことよりも、そこに至る過程を重視している、ということを徐々に皆が理解するようになっていきました。そしてその過程は何かというと、自分たちの主張を示すことではなくて、むしろ自分たちではなく、今教会の外にいる青年たちや、問題を抱え苦しんでいる人たちの声に寄り添い、耳を傾け同伴する、このことが重要であるということが何度も指摘され、これはシノドスの方法論だけではなく、今後の教会の在り方を示すものとして強調されていきました。
そしてこの会議が進んで最後に私たちが出した結論は、
「教会は全てのことに回答を持っているわけではない。今解決できない問題は数多くある。しかし、神は全ての人を愛しておられるのだから、教会もそうである。解決できない問題を抱えながらも彼らに同伴し、耳を傾け続けることが大切だ。」
このことをはっきりと、私たちは分科会の最後にまとめの文書として全体会に提出しました。
この視点は、教会の教えに従って生活していない若者についても同様で、「裁いてはならない」ということが何度も強調されました。そして彼らを裁くのではなく、彼らに同伴し耳を傾け続けることによって、彼らを導く姿勢が大切であることが強調されました。
倫理的な指針を打ち出すことは簡単です。しかしそれは世界の信者に向かって、それに従うようにという呼びかけになり、往々にしてそれに従えない人は教会から排除されてしまう。そういうことが今まであったわけです。「あるべき指針」を打ち出してそれに従うようにという従来の教会から、謙虚に耳を傾け同伴し続けるという教会の姿勢、私たちはそのように教会の在り方自体を変えていくのだ、というようなことが表明されていきました。

その他、インターネットに関するものもたくさん出ました。もう青年たちは地理的な教区とか小教区ではなくて、むしろデジタルタイプといわれる新世界において生き生きと生活している。教会は新たにそこに出向いて行かなければならない。どうしたら教会に戻すことができるのかという発想ではなく、むしろ彼らが住んでいる世界に、新たな宣教として私たちが出向いて行く必要があるということ。と同時に様々なネットの世界の危険性も指摘されていました。

大切なことは、一貫してあった「同伴すること」「聞くという態度」。今回のシノドスの隠れたテーマであったと言えます。そしてこの言葉を「シノダリティ」という言葉で表現していました。「シノドス」という意味は「共に歩む」という意味ですから、「シノダリティ」というのは、「共に歩み続ける教会」という意味になるのでしょうか? これが今後大切であるという、そして教皇様もそれを体現するかのように常に会議の期間中、私たちと共にいるようにしていました。

この「シノダリティ」は、シノドスの場面だけではなく是非、世界中に帰っていった司教たちが、自分たちの国でもこの姿勢を取っていっていただきたい、なかなか理解してもらうのは難しいのですが。私は札幌教区の中でも、確かに青年たちはいるのですけれど、教会の中には見受けられないのです。しかしネットワークミーティングなどが行われた時、支笏湖で行われた時には札幌教区の30人近い青年たちが実行委員会を組んでいました。来年1月のワールドユースデー パナマ大会では、東京教区に次ぐ人数で札幌教区の青年たちが参加します。青年たちは教会には来ないけれど、いるのです。教会には来ないけれどカトリックというアイデンティティを持って活動している青年たちはいます。
私たちは”いない”かのように無視しているのは、青年が教会を離れているのではなく、私たちが見ようとしていないだけではないかと考えています。
今回のシノドスのテーマを札幌教区の中でも体現していくために、「出向いて行って耳を傾け同伴する」という在り方を皆さんと一緒に考えていきたいと思います。』