2019年6月23日日曜日

6月23日(日)キリストの聖体

聖体の秘跡とは、神から与えられたパンをともにいただくことによって、神とのつながりと人と人とのつながりを深く味わうことです。

今日の主日ミサは、佐藤謙一神父様の司式により行われました。


佐藤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『 今日はキリストの聖体の祭日です。イエスがわたしたちに対してどのような出会い方をするのかということが示されていると思います。
今日の福音はイエスが 12人の使徒たちだけを連れてベトサイダというガリラヤ湖の北の町に行きます。
 イエスは使徒たちに病気をいやす力と権能をお与えになって、それぞれ各地に派遣しました。その使徒たちが帰ってきたばかりでしたから、各地で行ったことをイエスは聞きたかったのだと思います。ところが群衆はイエスがベトサイダに行ったことを知ってイエスの後を追います。 使徒たちの話を聞こうとしていたけれども群衆が集まって来たので、イエスはその群衆を迎え入れて神の国について語り、治療の必要な人々をいやされます。
 むしろイエスは群衆を歓迎したと言えると思います。 自分の時間よりも人々の必要の方がイエスにとって大事なことだということです。 これはイエスの生き方そのもの、イエスの活動そのものです。 人々に対するイエスのやさしさがにじみ出ていると思います。
 そしてさらに日が暮れて来たときに12人の使徒たちが群衆を解散させようとします。 人間的な常識から考えれば、当然のことです。 しかしイエスの考えは違います。 使徒たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われます。
 イエスがことばと行いをとおして示されたことは、自分たちは神から見捨てられていると思っている人々に希望を与えることでした。 弟子たちが最初からこのことを自覚していたわけではないことはイエスへの言葉でわかります。 弟子たちがそれを理解するのは、イエスが十字架上で殺された後、復活したイエスと出会ってからのことです。

さて、5000人以上の人が5つのパンと2匹の魚で満腹したという奇跡についてどう考えるかという問題があります。
 福音書が書かれたのがイエスの死後40年もたった後でしたから口伝えでのエピソードが教会の中で伝えられました。 その中でわずかな食べ物をイエスが人々ともに分け合い、大勢の人が満たされたという弟子たちの体験があったことは確かだと思います。 そこにはイエスの与えるものは豊かであり、本当の生き方が示されているということを感じていたはずです。
人数の問題や食べ物の数の問題を考えると人間的な誤りにおちいってしまいます。 愛には大小や多い少ないはありません。 イエスのもとには本当の豊かさがあり、本物のいのちがあるということを伝えたいのだと思います。

弟子たちは聖霊降臨の後、人々の前でイエスのことを語り始め、教会を作りました。 イエスの弟子たちの集まりである教会はイエスの名のもとに集まることによって目に見えるしるしとなりました。
一人ひとりがそれぞれ神と出会うだけではなく、お互いに集まることによって父と子と聖霊の神を確認し、 力づけ合うのです。イエス・キリストに従う者たちが同じ信仰に支えられて、毎日の生活の中で神との出会いをよりたやすくできるのです。 聖体の秘跡とは、神から与えられたパンをともにいただくことによって、神とのつながりと人と人とのつながりを深く味わうことなのです。 イエスは最後の晩餐で、神とのつながり、人と人とのつながり、そしてご自分と弟子たちのつながりをずっと続くものにしようとされました。

聖パウロのコリントの手紙は、最後の晩餐でイエスが言われた言葉の記録としては最も古いものです。 イエスが亡くなってから20年後くらいに書かれたものと言われています。
 このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる使命がわたしたちに 与えられたのです。
わたしたちもキリストの聖体を通して、神とつながり、同じ信仰を持つ人々とともにイエスの示された愛を実現していく者となれるよう祈ってまいりましょう。 』

2019年6月16日日曜日

三位一体の主日

この日のミサは、当教会出身の浅井太郎司祭(名古屋教区)が共同司式され、ミサの後「キリシタン時代」の講話をしていただきました。



この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。
【ヨハネ16章12~15節】

『このキリストの言葉の中に三位一体の神秘の一つが隠されていると思うのです。父なる神がすべてを御子であるキリストに委ねて、御子であるキリストがそのすべてを聖霊に委ね、この父と子と聖霊は同じものだと言うこと。
  「愛の喜び」という使徒的書簡を教皇様が発表されて、その中で、夫婦の絆は三位一体の似姿であると書いています。夫婦だけでなくて、愛の絆のひとつの面が、三位一体の似姿であるとしたら、同じ絆をそれぞれの人が可能性として持つことが出来るということが言えると思う。その面についてちょっとだけ紹介したいと思いますが、その愛は洗礼を受けてキリスト者となってから初めて持つわけではなくて、創造のときの神の似姿としての一面ですから、キリスト者でなくても誰でも持つことが出来るし、実現することが出来るのです。
 古い思想家がこのようなことを言っています。「人間は愛なしに生きることは出来ない。孤立して生きることは出来ないからである。」と言っていますが、創世記の最初のところで、神様は人はひとりでは生きていけない。いっしょに生きるものをあげよう。その人の絆の中で、私たちは生きれる存在となるわけです。この絆の一面がこの三位一体の絆。この愛をなくして生きられないと言っている思想家が、同時にこういうことを言っています。指導者たちは町を治めるわけですが、一番何に苦心するか。それは正義の実現ではないと言います。愛の実現だと言います。どんなに正義がいきわたっていても、その町、国が分裂していたら国はたちゆかない。政治家が一番心を砕くのが和合一致なんだと言っています。古代のギリシャの国ですから大きな国ではないです。大きな国ではないにしても分裂していたら立ちゆかなくなっていく。キリストもそう言ってます。そういう和合一致をもたらす愛のひとつの側面について、彼はこのように要約しています。キリストの言葉みたいですが、「その愛する者のために、その相手にとって最善のことを願い実現するように。自分中心ではなくて愛する者が中心である、利他的な愛です。人を愛する、隣人を愛するといっても良いでしょう。」

 そして、一番最高なことは相手がいつまでも生きることを望むことですが、同時に同じようなものを選ぶ。相手にとって最善なものは自分にとっても最善ですから同じものを選ぶ、同じ時を過ごす、同じ感情を共有する、悲しめば一緒に悲しみ、喜べば一緒に喜ぶ、それが愛だと言うのですが、別の言葉で言えば「兄弟のような愛」といっても良いかもしれません。同じものを選びながら、相手のために、相手にとって良いことを願いながら、相手のために生きる。その面はある意味で三位一体の交わり、絆のひとつの面といえる。これまでも復活節のときヨハネ福音書をとおして話してきたが、それがある意味で私たちの絆の理想的な面ではないかと思うのです。実現するかどうかは難しいかもしれない。少なくても私たちが神の似姿として創られたならば、そういう能力を持っているはずです。三位一体の持っている能力の一部は完全でないにしても持っているはず。それを実現することは全く出来ないことではない。できる限りこの三位一体の愛の交わりすべてを相手に委ね、相手のために生きる。そういう姿を私たちの内に実現する努力は必要だと思うし、出来ないことではない。ただ、私たちはあまりそれを意識していないかもしれない。 
 この共同体の中でも、少しでも実現出来るように三位一体の神に委ねるように、日々努力していく必要があると思うのです。』

2019年6月9日日曜日

聖霊降臨の主日

私たちは聖霊を受けた時に、キリストの証人として生きる使命をおびています。

今日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今から十数年前に、東京の小教区で「聖霊降臨」を迎えた時に、ある女性から「今日は逆バベルですね」と話しかけられ、「あっ」と。創世記に出てくる「バベルの塔」のことだったのですが、そうだろうか?と思ったわけです。聖霊降臨の出来事は、同じようなところもあるし、違うところもあり、ある意味関連しているのかもしれません。

皆さんもご存知のように「ノアの方舟」の出来事の後に、ノアは神と契約を結びます。神は「この世界はどんなに駄目でもリセットはしない」と約束をして虹を架けるわけです。そして天地創造と同じ言葉を言いました。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。全世界に散らばっていきなさい」と。
新たな創造をということなのかもしれませんが、その後に「バベルの塔」のお話があるわけです。人間は神の言葉に応えたかというとそうではなかった。世界中に散らばるように、と言われていたにも関わらず、人間がしたことは何かというと、たとえ神であっても散らばらされないようにしよう、ということでした。これを見た神が人間を全世界に散らばらせたという話です。
どんないいことをしたとしても、神の意図に反することは、よくないことということで、神の創造の意図を実現させていくことが大切なこというお話です。

「逆バベル」と言った人に「何でそうなの?」と聞いたところ、バベルの塔では皆は散らばらされたけれど、聖霊降臨では一つに集めた、という理由でした。
確かに今日の集会祈願では、「きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。」とありますが、それだけではないわけです。続きでは、「聖霊を世界にあまねく注いでください。教会の誕生に当たって行われた宣教の働きが、今も信じる民を通して続けられ、豊かな実りをもたらしますように。」とあります。

先週の第一朗読「使徒言行録」を読むとよくわかると思うのですが、キリストが天に昇っていく際にこう語られました「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、 また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 と、全世界に行ってキリストの証人になっていくということを命じました。
この時に、ただ茫然と天を見つめていた弟子たちに天使たちが言うわけです。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」と、ボーとしていないで、今言われたことを実行しなさいと言ったのです。そしてそれが実行されたことを示すのが、今日の第一朗読で語られた五旬祭の出来事です。使徒たちは決して急に語学が達者になって、いろいろな言語を話せるようなったということではなく、聖霊の力で同時通訳がされたわけでもありません。
ここで、言わんとしていることは、ここに出てくる全域に福音が伝えられたということです。これらの地域はその当時の世界全域を現しており、実際に弟子たちの中には、遥か遠方まで宣教に行ったという伝説が残っています。今日語られた出来事は、使徒言行録の初期の段階で宣教が実際に行動に移され、様々な国で福音が伝えられたということを現しています。

この聖霊降臨が何を意味しているか。それは、この新しい命を受けて、全世界に新しい命を生むために散らばって行ったということです。ですから、別に「バベルの塔」の反対ということではなく、神の意図は”創造”時から同じということです。神のいのちを全世界に広めていくということです。
そういう意味では、私たちもそういう使命を受けているということです。どこにあってもキリストの証人として生きる使命を、私たちは聖霊を受けた時点で授かっているということです。』

2019年6月3日月曜日

主の昇天

「主の被昇天」を様々な視点から考えてみましょう。
この日のお説教のなかで湯澤神父様がお話されています。


この日の湯澤神父様のお説教の大要をご紹介します。


『今日は「主の昇天」ですが、福音記者が十字架とかいろいろ描くのですが、必ずしもひとつの面から描いているわけではないのです。同じ福音記者であったとしても 物事は必ずしも一面だけではない。皆さんも前面から撮った写真だけが皆さんの顔ではない。横から撮ったらすごく美人だとか、あるいは後ろからの方が良い場合もあります。一人の人であったとしてもそれぞれの面を持っているわけです。 

 例えば今日の御昇天にしても、けっして一面から捉えるのではなくて、いろいろな面から語られてくるのです。今日の第一朗読と福音は同じことを描いているわけですが、少し角度が違うのです。福音の方は昇天で終わるかたちで語られていますが、最後には「エルサレムに帰り、絶えず神殿で神をほめたたええていた。」この昇天をとおして教会の生活が描かれてくるのです。使徒言行録では2章で、別なかたちで語られてくるのですが、  第一朗読の使徒言行録は、次に聖霊降臨という出来事を控えて書いてありますので、そういうふたつに分けた書き方をしているのです。 使徒言行録の方は昇天について書いてあるわけですが、当然その後の聖霊降臨を見越して書かれていますから、「エルサレムから離れないよう。」にと言うわけです。

 そして、「聖霊を受けるよう。」にと書かれています。福音書の方はそのことには触れていないですね。ふたつに分けて書く必要を感じていなかったかもしれないですね。使徒言行録を見てみると、昇天の出来事があるわけですが、エルサレムに留まるようにとしています。ルカはエルサレムから新しい教会の動きが始まる。おそらくほかの福音を書いた人もそうだろうと思いますし、少なくとも実際エルサレムから始まると推測されるわけです。ただ、一度ガリラヤより引っ込んだ弟子たちが、どのようにしてエルサレムに集まったかというのは、なかなか議論のあるところです。ただ、ルカはガリラヤから始まってエルサレムに、エルサレムから全世界に行くという図式があるので、エルサレムが前面にでているわけです。このエルサレムからすべてが始まり、すべてが終わる、そういう感じです。

  聖霊降臨前に、その後のことも触れているわけですが、非常に面白いことは天使の言葉ですね。キリストが天に上げられたことは、共観福音書では神の栄光を受ける、あるいは全権能を引き受けるという意味がある。ヨハネと違うのです。ヨハネは元いたところに戻るという意味。例えば、墓のところでマグダラのマリアに現れて、マグダラのマリアはすがりつくのですが、「すがりついてはいけない。まだ、天に上げられていないから。」どうしても来たところに戻らなければならない。 共観福音書はそのようなことはないわけ。神としての権能をすべて受け継いでいく。そういうかたちになるからです。

 その意味で天に昇るわけですが、その後どうなるのか。このキリストが地上でしていたことを、弟子たちが受け継いでいくことになる。そのことが天使の言葉の中で強調されてきます。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。」という言葉ですね。 何気ない言葉ですが、非常に意味のある言葉ですね。平たい言葉で言うと「なぜぼーっとしているのですか。」というこですね。確かに天に上げられたことは素晴らしいことで、それを見上げ礼拝することは良いことなのですが、何か忘れていませんか。その忘れていることは何かと言うと、前のキリストの言葉ですね。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤ、サマリアの全土で、また地の果てまで私の証人となる。」ということです。
 ルカが言ったように、エルサレムから始まって全世界へと広がっていく地理的な広がりを描いているわけで、実際に使徒言行録を見てみると、エルサレムの活動の後、ステファノは殉教する。これを機会に弟子たちはサマリアに移っていく。7人の助祭のフィリポですが、サマリア宣教をするわけですが、それで終わりかと言うとそうではなくて、本当に瞬間移動のように聖霊に導かれて「ガザ」というところに行くわけです。まったく方向が違います。エルサレムから見たサマリアは北ですが、ガザはもっと南の方ですね。そこに連れていかれ、エチオピアの高級官僚に洗礼を授けるわけですね。出来事が続くわけです。 このエチオピアはその当時の地の果てです。エジプトの南で、エチオピアに行ったら地の果て。世界の広さはそんなところですね。西はスペイン、イギリスまで。東はインドくらいまで。だいたいそんな世界が彼らの世界。それよりも東西南北が広がっていない。 ここから見るとエルサレムから始まって、ユダヤ、サマリア、そして地の果てまで。

 このキリストの証人になる宣教が、そういうかたちで広がって行くわけですが、ルカはその当時のイメージを描いていますが、これに時間の軸を加えると四次元になるわけですが、現代に繋がってくるわけです。そのように捉えてみると、「なぜ、ぼーっと立っていのですか。あなたがたは全世界の証人になるのではありませんか。」この天使の言葉は現在の私たちにも向けられている言葉です。四次元のグループ。世の終わりまで福音を伝える使命をキリストの弟子は持っているのです。現在の我々はそれを引き継いで、さらに引き継がせて行く。次の世代に引き継いでいくのです。
 
 この広がりは単なる空間ではなくて、時間の広がりまで持って行くわけです。その意味で見るとこの天使の言葉「なぜ、ぼーっとしているのですか。」もしかしたら、私たちは「ぼーっ」としているかもしれない。何もしないのですね。「何か忘れていませんか。キリストの証人になることを。」
 そういう意味で何気ない天使の言葉ですが、天を見上げて立っているのですか。たしかに神を礼拝することは素晴らしいことですが、それだけではないでしょう。私たちはもしかしたらそれを重視していないかもしれない。もしかしたら忘れているかもしれない。
 私たちに受けられた言葉として受け止めていきたいと思います。』