2023年3月26日日曜日

3月26日 四旬節第5主日

 ウルバン神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてお送りします。




【福音メッセージ】 四旬節第5主日A年 2023年3月26日 ウルバン神父“イエスは涙を流された“


“主よ、あなたの愛しておられる者は病気なのです”とイエスは知らされたが、姉妹マルタとマリアが泣きながら待っているのを知って、なお二日間、動きませんでした。“主よ、どこにいるのか、早く来てください、必死に待っているよ”と涙のうちに呼びながら、村の入り口まで走って行って、遠くまで覗こうとしたが、何も見えませんでした。“どうして来ないか分からないが、いつかきっと来ます”と、姉妹達は互いお慰めあって。

ある時、5歳の信者のかわいい女の子が病気になった。頭の中にがんがあった。お父さんも、私も何回も子供の床のそばに立って祈っていたが、病気はますます悪くなって、頭はがんでスイカのように膨らんできた。信者ではない母親は泣きながら私達の祈る姿を見ていたが、慰めになりませんでした。子供が死にました。教会へ行って、教えてもらいなさいと、主人に勧められたが、娘を助けに来なかった神様に心を開けませんでした。教会から家へ戻った時、いつも深いうつに沈んだ。もう来なくなった。娘は神様に愛されなかった。何年か後、母もイエスに出会って、子も愛されて、光に生きていることを知った。長い暗闇の道を歩いた後、顔に微笑みが戻った。

マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行って、イエスの足元に平伏した。イエスは慈しんで手を伸べて言った。“私を信じる者は、死んでも生きる。信じる者は決して死ぬことはない。マルタ、このことを信じるのか”。マルタはイエスの顔をみて、“はい、主よ、私は信じております”と、答えた。イエスは、ご自分の足元にひれ伏し泣いている姉妹マリアと、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見た。その時、イエスは心に憤り、涙を流された。

この主の涙は私たちの心に響いています。忘れる事が出来ません。主の心の中を見ているのではないでしょうか。このイエスに私もついて行きたい、ゆるぎなく信じたいのです。今日もイエスは私とあなたに手を伸べて話しています。“我が子よ、我が愛する子よ、私はあなたを見ています。あなたの毎日の苦労、体と心の疲れ、周りの理解できない暗闇、あなたの疑い、力と弱さ、悲しみと喜び、あなたの夢、心の餓え渇き、全て知っています。いつもあなたに近いのです。道が見えなくなっても、もし信じるなら、我が子よ、あなたも神の栄光が見られる”。

もう何十年も前の事です。丁度、ドイツにいた時、父母の結婚金祝に参加する事が出来た。大きな喜びでしたが、もうすぐ、別れのつらい日が来ました。母にがんの病があって、もう長く生きる事はないのを知っていた。出発の朝、母はもう一回私を静かな所へ呼んで、私に別れの祝福を与えた。いつも聖水で頭、胸、肩に泣きながら十字架のしるしをしたが、今回は泣きませんでした。私が泣いた。母の最後の言葉はまだ心に響いています。“今度、天国で会おう”。それは別れの言葉でした。マルタが言われた言葉、“信じれば、神の栄光を見る”は、母の中に生きていた。神に賛美。



【聖書朗読箇所】


全能の、神である父よ、

  御子キリストは、人々を愛してみずからを死に渡されました。

  わたしたちも、この愛のうちに力強く歩むことができますように。

会祈願より



第1朗読 エゼキエルの預言 (エゼキエル37章12-14節)


主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。

わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。


わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、

わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。


また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。

わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。

そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、

行ったことを知るようになる」と主は言われる。



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ8章8-11節)


(皆さん、)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。

神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。

キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。


もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。



福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ11章1-45節)


(そのとき、)ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。

このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。(ラザロの)姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。

イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」


弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、

またそこへ行かれるのですか。」

イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」

こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。


イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。


さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。

マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。


マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」


マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。


イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。


マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。

彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、(イエスは)心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。


イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。

イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、

「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。

イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。


人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。

しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。


※コロナウィルス感染症拡大でミサに参加できない信徒の皆様に、主日の神父様の説教と聖書朗読箇所をお届けして参りました。

先日、勝谷司教よりミサ参加の各種制限撤廃が発表されたことを受け、各小教区でもコロナ前の状況に戻りつつあります。

「主日の福音メッセージ」は今回の配信で最後となります。これからは、ミサで神父様の説教と聖書のみ言葉にご一緒に耳を傾けて参りましょう。

2023年3月17日金曜日

3月19日 四旬節第4主日

 山谷神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。


【福音メッセージ】 四旬節第4主日 A年 2023年3月19日 山谷神父

今日の福音は奇跡のお話しですね。以前、ルルドの奇跡を興味本位で取り上げていたテレビ番組を見たことがありますが、この中でカトリックの神父さんがインタビューに答えていて、「奇跡があったことよりも、むしろ奇跡を体験した人がその後、どのように生きたのかが大切だ」と言っていました。

今日の福音はヨハネ9章の盲人の癒しでした。イエスと出会い癒しの恵みをいただきます。普通の奇跡物語のパターンではこれで終わりですが、今日のお話しの特徴は、癒しの恵みをいただいた人の後日談が語られています。むしろこちらの方がメインのストーリになっています。同じように後日談が語られているのが5章のベトザタの池の癒しです。今日のシロアムの池のお話しと、ベトザタの池のお話しは非常によく似た展開で語られ、対をなしていると見ていいでしょう。ですから、二つの物語を比較することで、ヨハネ福音書が伝えようとするメッセージが見えてきます。

ベトザタの池の癒しでは、癒しの恵みをいただいた人は、ユダヤ人から尋問され、結局イエスのことを裏切るかたちで終わっています。ところが今日のシロアムのお話しでは、ファリサイ派の人々から尋問されますが、臆せず反論し、結局会堂を追放になり、イエスを信じてイエスを礼拝する形で終わっています。同じような展開でありながらも、二人の癒やされた者の結末は全く異なるものになってゆきます。ここでヨハネ福音書は、イエスとの出会いが癒しというご利益で終わるのか、それともイエスとの関係がご利益を超えた深い絆を結ぶ出会いにまで深まるのかを問いかけているのでしょう。

5章のベトザタの池のお話しよりも、今日のシロアムの池のお話の方が圧倒的に長いお話になっています。それは、癒やされた者のその後の歩みを丁寧に描いているからです。イエスは泥をこねて彼の目に塗りました。泥をこねるのは創世記で神が人間を土から形作るお話しを暗示しており、新しい人間の創造という意味があります。そして、シロアムの池での洗いは、洗礼を意味しているでしょう。洗礼を受けて新しく生まれた彼は光をもらいました。しかし、彼にはまだイエスは見えていません。ベトザタのお話しもシロアムのお話も、癒しの後、イエスは一旦その場を立ち去り隠れてしまいます。このような描き方は、真のイエスを探すという意味があります。表面的なイエスとの出会いから、もっと深くイエスと出会うためにイエスは一旦見えなくなっているのです。

シロアムの池で癒やされた盲人は、再びイエスと出会い、「信じます」と答えてイエスを礼拝しました。イエスを信じたために彼は会堂から追放され、ユダヤ人の社会では生きられない者にされてしまいます。しかし、そのような試練に会っても、彼はイエスとの離れられない絆を結んで行ったのです。ご利益を超えた、イエスとの真の絆が結ばれていったのです。私たちのイエスとの関係も、都合のいい時だけの関係で終わっていないでしょうか。



【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

  あなたは御子の苦しみと死によって、ゆるしの恵みをもたらしてくださいました。

  キリストを信じる人々が、信仰と愛に満たされ、主の過越を迎えることができますように。

集会祈願より



第1朗読 サムエル記 (サムエル上16章1b,6-7,10-13a節)


(その日、主はサムエルに言われた。)「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」


彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」


エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。

「主はこれらの者をお選びにならない。」サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」

「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」


エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」

サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。



第2朗読 使徒パウロのエフェソの教会への手紙 (エフェソ5章8-14節)


(皆さん、)あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。

光の子として歩みなさい。

――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――

何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。

実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。

彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。

しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。

明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。

「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」



福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ9章1-41節)


(そのとき、)イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」


イエスはお答えになった。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」


こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。

そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。


近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。

「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。


そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」


人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。

イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。

そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」


ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。


そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」

彼は「あの方は預言者です」と言った。


それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。

「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」


両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」


両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。

両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。


さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。

「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」

彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」


すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」

彼は答えた。

「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」


そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」


彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」


彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。


イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。

彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

彼(は、)「主よ、信じます」と言って、ひざまず(いた。)

イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」


イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。

イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

2023年3月11日土曜日

3月12日 四旬節第3主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 四旬節第3主日 A年 2023年3月12日 松村神父

旅で「疲れ切ったイエスの姿」であった事と、「水を汲みに来た女性」が来たのは正午であったことから、いくつかの推測をすることができます。今日はそのことから二つの視点で紐解いていきたいと思います。

第一に、旧約時代エルサレムを中心とした南ユダ王国とサマリアを中心とした北イスラエル王国に分かれ、同じ神を讃えてはいたが、エルサレム神殿に対抗するようにサマリアは自分たちの神殿を作った。唯一の神を自分たちこそ正しく讃えるんだという、なんとも神中心よりも人中心的な発想で始めてしまった。ユダヤ教にとっての中心はあくまでエルサレムでしたので、サマリアの宗教はユダヤ教の分派であり、あくまでも異教徒の集団であると理解されていた。「サマリアの女」とは、ユダヤ人にとって敵対・異端・異文化という対象であったが、イエスはそこに自分の旅で疲れて弱りはてた姿と、対話をもって「身を低くした“しもべ”の姿」で関わっていったということは、象徴的な宣教するキリスト者の姿が垣間見える。宣教する者の姿が、上から教えてあげるという姿勢を取り続けてきたことへの警告ではないだろうか。

第二に、本来女性の役割として、朝早く、一日に必要な家庭の水を汲みに井戸にやって来ては、集まった婦人たちと僅かな井戸端会議を行い、帰って家族のために作業に取り掛かります。しかしこの女性は正午に来たということは、他の女性と会うことができない幾つかの理由があったのだろうと読むことができます。実際イエスとの会話から夫が5人いたようだが、現在の連れ添いも本当の夫ではないということは、この女性は日の目を浴びることができない仕事についていたということであろう。つまり他の婦人たちと顔も併せられず、周りから理解されず、助ける者もおらず、社会から外れ、孤独にさいなまれていた一人の女性であった。現代ではLGBTQや自殺願望を持つ人、精神疾患を持つ人など、教会内ではまだまだ声を上げられない一人がいる事を理解する必要があるのだろう。自分の知っている価値観を乗り越えなければ、真の神の国へは届かないことを指しているのかもしれない。

 今日の話は、これらの事を踏まえて、井戸からの尽きる泉の限界を知り、イエスから来る無限の恵みに人生をかける事を思い起こすことが大切なのだろう。泉の限界とはこの世的な人の経験であり、また態度を指し、イエスから来る水は永遠の命を思い起こすことにある。教皇フランシスコは多くの回勅などの書簡を通して「解放」を示し、無限の愛で包まれることを強調されています。サマリアの女は指摘されても仕方がない人生なのかもしれないが、それでもゆるし、包み込み、励まし、派遣される神の愛を、この回心の時に思い起こしたい。自分の回心は、人を許す愛の業から始まることを大切にして、この四旬節を過ごしていってはと思います。



【聖書朗読箇所】


信じる者の力である神よ、

  あなたは祈り、節制、愛のわざによって、

  わたしたちが罪に打ち勝つことをお望みになります。

  弱さのために倒れて力を落とすわたしたちを、

  いつもあわれみをもって助け起こしてください。

集会祈願より



第1朗読 出エジプト記 (出エジプト17章3-7節)


(その日、)民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。

「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」


モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。

「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。

見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」

モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。


彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ5章1-2,5-8節)


(皆さん、)わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。


希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。


しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。



福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ4章5-42節)


(そのとき、イエスは、)ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。


サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。


イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」


女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」


イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」


女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」


イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。

イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」


女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」


イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」


女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」


イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」


ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。

しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。


女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」


人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。


イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、

その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」


さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と

証言した女の言葉によって、イエスを信じた。


そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。


彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

2023年3月4日土曜日

3月5日 四旬節第2主日

 レイナルド神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。




【福音メッセージ】 四旬節第2主日 A年 2023年3月5日


「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16章24節)

キリストの弟子になるのは決してたやすくありません。背負う十字架が重たすぎる時があり、さらに待ち受ける困難を思うと恐ろしくさえなります。

イエスの姿の変容から得られる教訓は、恐れや疲労、後悔をもたないでイエスに従い、私たちを前に進ませる助けになるということです。3人の弟子たちが最後には気がついたように、やがて全てが良い結果になるという確信があります。それはハッピーエンドになるのを知っている小説を読むようです。主人公がどんな困難にあおうとも、私たちはめげずに読み進んでいきます。その物語が幸せな結末で終わると知っているからです。

最後の晩餐でイエスは私たちに永遠の記念、すなわちご聖体を残されます。それはイエスが実存するという秘跡、それによりイエスの「私は世のおわりまであなた方と共にいる」という約束を果たすためです。何が起ころうと、イエスはいつも私たちと共におられ、とくにご聖体の中にいらっしゃいます。

私たちは3人の弟子たちが山で行ったように信仰の目を開け、大聖グレゴリウス教皇が宣言した「典礼は本来、神のみ前の聖なる行いであり、神父の賞賛に答えるミサ聖贄のとき、天は開き、天使たちの歌声はこの神秘に立ち合い、上にあるもの下にあるもの, 天と地が結びつき、見えるもの、見えないものが一緒になる」。これこそが変容の経験ではないでしょうか?

確かに私たちの感覚は何の変化も感じません。パンは同じパンに見え葡萄酒もそうです。しかしその変化は外観にはなく、そのものの中にあります。パンは未だにパンに見え、葡萄酒も葡萄酒のままに見えます。しかし聖別のとき、それはキリストの体、キリストのおん血となります。私たちのカトリックの神学ではこれを聖変化と呼びます。

聖フランシスコ・サレジオは次のように説明します。「しかしながら祭壇に祝福されたご聖体があるとき、そしてこの存在はもはや想像ではなくまさに現実なのです。そしてこの聖なるものはたとえ私たちがイエスその人を見ることができなくても、実在の救い主がその後ろから見守り見つめるベールであるのです。

ミサはまさに「地上の天国」と言われます。天国とは神と一緒にいる状態のことです。もし私たちがイエスは本当にご聖体のなかにおられると信じるのなら、すなわちミサとは地上の天国を経験することです。私たちがミサに与っているときこの貴重な瞬間をどれだけ深く大切にし感謝しているでしょうか。

イエスはまことにおられ, わたしたちと共にいらっしゃいます。天国は、ここ、ミサ中に始まるのです。



【聖書朗読箇所】


聖なる父よ、

  あなたは「愛する子に聞け」とお命じになりました。

  みことばによってわたしたちを養ってください。

  信仰の目が清められて

  あなたの顔を仰ぎ見ることができますように。

集会祈願より



第1朗読 創世記 (創世記12章1-4a節)


(その日、)主はアブラムに言われた。

「あなたは生まれ故郷

父の家を離れて

わたしが示す地に行きなさい。


わたしはあなたを大いなる国民にし

あなたを祝福し、あなたの名を高める

祝福の源となるように。


あなたを祝福する人をわたしは祝福し

あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて

あなたによって祝福に入る。」


アブラムは、主の言葉に従って旅立った。



第2朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 (2テモテ1章8b-10節)


(愛する者よ、)神の力に支えられて、

福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、

わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。

この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、

今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。

キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。



福音朗読 マタイによる福音 (マタイ17章1-9節)


(そのとき、)イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。

見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。

ペトロが口をはさんでイエスに言った。

「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」


ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。

すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。

弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。


イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」

彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。


一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。