2023年3月11日土曜日

3月12日 四旬節第3主日

 松村神父様の福音メッセージを聖書朗読箇所と併せてご紹介します。



【福音メッセージ】 四旬節第3主日 A年 2023年3月12日 松村神父

旅で「疲れ切ったイエスの姿」であった事と、「水を汲みに来た女性」が来たのは正午であったことから、いくつかの推測をすることができます。今日はそのことから二つの視点で紐解いていきたいと思います。

第一に、旧約時代エルサレムを中心とした南ユダ王国とサマリアを中心とした北イスラエル王国に分かれ、同じ神を讃えてはいたが、エルサレム神殿に対抗するようにサマリアは自分たちの神殿を作った。唯一の神を自分たちこそ正しく讃えるんだという、なんとも神中心よりも人中心的な発想で始めてしまった。ユダヤ教にとっての中心はあくまでエルサレムでしたので、サマリアの宗教はユダヤ教の分派であり、あくまでも異教徒の集団であると理解されていた。「サマリアの女」とは、ユダヤ人にとって敵対・異端・異文化という対象であったが、イエスはそこに自分の旅で疲れて弱りはてた姿と、対話をもって「身を低くした“しもべ”の姿」で関わっていったということは、象徴的な宣教するキリスト者の姿が垣間見える。宣教する者の姿が、上から教えてあげるという姿勢を取り続けてきたことへの警告ではないだろうか。

第二に、本来女性の役割として、朝早く、一日に必要な家庭の水を汲みに井戸にやって来ては、集まった婦人たちと僅かな井戸端会議を行い、帰って家族のために作業に取り掛かります。しかしこの女性は正午に来たということは、他の女性と会うことができない幾つかの理由があったのだろうと読むことができます。実際イエスとの会話から夫が5人いたようだが、現在の連れ添いも本当の夫ではないということは、この女性は日の目を浴びることができない仕事についていたということであろう。つまり他の婦人たちと顔も併せられず、周りから理解されず、助ける者もおらず、社会から外れ、孤独にさいなまれていた一人の女性であった。現代ではLGBTQや自殺願望を持つ人、精神疾患を持つ人など、教会内ではまだまだ声を上げられない一人がいる事を理解する必要があるのだろう。自分の知っている価値観を乗り越えなければ、真の神の国へは届かないことを指しているのかもしれない。

 今日の話は、これらの事を踏まえて、井戸からの尽きる泉の限界を知り、イエスから来る無限の恵みに人生をかける事を思い起こすことが大切なのだろう。泉の限界とはこの世的な人の経験であり、また態度を指し、イエスから来る水は永遠の命を思い起こすことにある。教皇フランシスコは多くの回勅などの書簡を通して「解放」を示し、無限の愛で包まれることを強調されています。サマリアの女は指摘されても仕方がない人生なのかもしれないが、それでもゆるし、包み込み、励まし、派遣される神の愛を、この回心の時に思い起こしたい。自分の回心は、人を許す愛の業から始まることを大切にして、この四旬節を過ごしていってはと思います。



【聖書朗読箇所】


信じる者の力である神よ、

  あなたは祈り、節制、愛のわざによって、

  わたしたちが罪に打ち勝つことをお望みになります。

  弱さのために倒れて力を落とすわたしたちを、

  いつもあわれみをもって助け起こしてください。

集会祈願より



第1朗読 出エジプト記 (出エジプト17章3-7節)


(その日、)民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。

「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」


モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。

「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。

見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」

モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。


彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。



第2朗読 使徒パウロのローマの教会への手紙 (ローマ5章1-2,5-8節)


(皆さん、)わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。


希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。


しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。



福音朗読 ヨハネによる福音 (ヨハネ4章5-42節)


(そのとき、イエスは、)ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。


サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。


イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」


女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」


イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」


女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」


イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。

イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」


女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」


イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」


女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」


イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」


ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。

しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。


女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」


人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。


イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、

その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」


さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と

証言した女の言葉によって、イエスを信じた。


そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。


彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」