2015年4月6日月曜日

復活の主日

主の御復活おめでとうございます。

今日、聖堂には溢れんばかりに、300人以上の方が復活祭ミサに与られ、共に主の復活を祝いました。




昨夜の復活徹夜祭では、お二人の方が洗礼を、お一人が初聖体を受けられましたが、私たちも皆、使徒パウロが「キリストと共に死ぬ」と説明された洗礼の、約束の更新を行いました。御復活ミサの後は、カテドラルホールに移り、昨日の復活徹夜祭で洗礼を受けられたIさんとAさん、初聖体を受けられたOさんと、改めて御復活の喜びとを共にしました。そして、一足早く共同体に加わられていたOさん、新しく共同体加わって下さったIさんAさんと共に、新しい共同体を作って行ける事に感謝をしました。
所で、昨夜は、復活徹夜祭の後で皆既月食を観た方が大勢居られたと思います。当地でも、札幌テレビ塔の上に薄らと赤銅色に染まった皆既月食を観る事が出来ました。皆既月食は2~3年毎に観られるようですが、復活徹夜祭と皆既月食が重なったのは何十年振りでしょうか?毎年、当たり前のように復活祭を迎えますが、今年の復活祭は今年だけの復活祭です、Iさんと、Aさんが共同体に入って下さった復活祭は今年だけです。今年の復活祭では、今を、今の信仰を、今の共同体を大切にすることに改めて思いを強くし、私たちに信仰の大切さを教えて下さった、キリシタン時代から続く多くの先達への感謝を新たにしました。


<後藤神父様のお説教概要です>

『キリストの復活おめでとうございます。
この1年の歩みは新しい教会での仕事、色々な意味で戸惑いや、新しい出来事、沢山の行事を通して色々な経験をして来ました。この聖週間、特に聖なる3日間は地主司教様、勝谷司教様と、3人の共同司式の形で行った典礼も、私にとっては新しい経験でした。また、遅い時間にもかかわらず、待者として奉仕して下さった子供たちの姿が、私にとってはとても大きな喜びであり、今日は、私には特別な復活祭の朝でした。
イエスが十字架に架かるまでの道行を見つめ、拭い様のない心の不安と、イエスが死んでしまったという寂しさ、自分たちの力で救う事が出来なかった弟子たち、そしてイエスの裁きは残忍に人目に晒す十字架の死という結果になりました。
イエスの死を現実にして、不安に過ごした弟子たち。マリア様を始め多くの婦人たち、すぐにでも遺体を引き取りたくても、キリスト者への軋轢を考えての戸惑い。思い切った行動に出る事が出来ず、墓の石を開けられるか考えながらも、じっとしていられない婦人たち。今日の福音、2000年前の聖書の中にも力強い女性の姿が描かれています。残念ながらそこに男性たちの姿は見られません。昔も今も女性は強いと思います。墓に着くと、石は既に取り除かれていて、イエスの復活を想像できない戸惑う婦人たちの姿が描かれています。遺体が無い事を弟子たちに伝え、そして漸く男性が現れます。ペトロは遺体が無い事を自分の目で確認して信じた、でも見て信じたのはイエスの復活ではなく、出来事そのものを信じたのです。イエスが死者の中から復活したことを理解するのにはもう少し時間が必要でした。
このことは私たちと非常に共通します。私たちも出来事に驚いても、この世の出来事としか考えられない事があります、この地上の事にのみ心が奪われる事があります。
パウロは「キリストが神の右の座についておられます、上にあるものに心をとめ、地上のものに心を引かれないようにしなさい」という言葉を残されました。私たちは現実を大事にして、心を上に向けず、この世に心を向けて思い煩う事があります。でも、大切なことは神に心を向けること、というのがパウロの諭し、戒めなのです。
弟子たちが帰った後、イエスと出会って新しい命の道を歩き始めたマグダラのマリアに主があらわれます。マグダラのマリアはイエスの愛によって救われた一人の女性でした。イエスと出会って洗礼によって主と結ばれた私たちも新しい生き方に向かっています。一切の苦難と、死の彼方には復活の永遠の命が待っているということを、今日あらためて心の中に留めたいと思います。この世界には様々な苦しみ、悲しみといった大きな壁が私たちの前に立ちはだかっていることがあります。でも、私たちが目指すのは、この世のその場所だけではなく、そこを通り過ぎて神の永遠の命の世界に招かれていることを忘れてはならないと思います。今日はその希望を新たにして、新しい出発を決心したいと思います。私たち教会共同体に新しい兄弟を迎えて、私たちの教会だけでなく、広く日本の教会が世界の教会にも目を向けて、祈りを奉げられる、そういう一人ひとりになれればと願っています。』

「復活の主日」アルバム



















2015年4月5日日曜日

復活の聖なる徹夜祭

キリスト教で一年のうち最も盛大で中心的な典礼であるキリストの死と復活を祝う祭儀が4月4日(土)の夜行われました。

聖堂に隣接するカテドラルホールに信徒が集まり、勝谷司教様により火の祝福が行われました。


復活のローソクが祝福されました。


新しい火が祝福された復活のローソクに灯され、司祭が「キリストの光」と唱えるなか、行列は聖堂へと進みました。




復活賛歌が歌われた後、ことばの典礼に移り、旧約聖書から7つの箇所が朗読されました。

 

福音朗読と勝谷司教様のお説教の後、洗礼式・堅信式が行われました。



洗礼の約束の更新の後、聖堂に集まった信徒は司教様から聖水を受けました。


この夜、2名の方が洗礼・堅信を受けられ、初聖体を受けられた1名の方と共に、新たに共同体に招かれました。





2015年4月3日金曜日

聖金曜日(主の受難)

聖金曜日(主の受難)


この日の祭儀ではヨハネ福音書から受難の朗読が行われました。捕らえられたイエスが裁判にかけられ、十字架の死に至るまでの様子が語られました。
後藤神父様はお説教で「十字架につけられ想像を絶する苦しみ悲しみのなかにあっても私たちに深い愛を注がれたイエスについて黙想しましょう」というお話をされました。

十字架が顕示され、その後、十字架の礼拝が行われました。






御聖体がカテドラルホールの仮祭壇から聖堂へ運ばれ、聖体拝領が行われました。



2015年4月2日木曜日

聖木曜日 「主の晩さんの夕べのミサ」

主の晩さんの夕べのミサ
今日のミサは、キリストが聖体を制定し、自らの記念としてこれを行うよう命じた最後の晩さんを記念したものです。
ミサは18時半から始まり、勝谷司教様、地主司教様、後藤神父様の共同司式で執り行われました。



ミサのなかで洗足式が行われ、勝谷司教様が12名の信徒の足を洗われました。








拝領祈願の後、聖体安置式が行われ、聖体は祭壇の聖櫃からカテドラルホールの仮聖櫃に移され、お祈りが捧げられました。






祭壇上のものは全て取り去られ、十字架や御像には紫布が掛けられました。

2015年4月1日水曜日

聖香油ミサ

3月31日(火)11:00からカトリック北一条教会で
聖香油ミサが行われました。通常、聖木曜日に行われるミサ
ですが、札幌教区の場合、地域が広く、司牧的配慮から
受難の火曜日に行われています。
全道各地から多くの司祭が集まり、ミサの説教では
アド・リミナから帰られたばかりの勝谷司教から
教皇様との謁見の様子などが語られ、改めて信徒の
果たす役割が強調されました。
ミサでは、司祭の約束の更新が力強く行われ、
香油の聖別が無事行われました、





以下は、勝谷司教の説教(要旨)です。
聖香油ミサ 勝谷司教

先週の土曜日にアド・リミナとよばれる司教達の定期的なバチカン訪問から帰ってき
ました。私としては初めての経験。そこで各省庁の長官たちと会って、いろいろな議
論をして、そして教皇様と会ってお話をするというのが今回のメインでしたが、今回
の訪問は着いた翌日に教皇様との謁見が約40分間ありました。通常は一人ひとりの
司教が教皇様とお話をするそうですが、今回はほかの国もそうですが、まとまって教
皇様を囲んで話し合いをするというかたちでした。たぶん一対一でしたら緊張して何
も言えなかったと思いますが、自由に話し合いができたので、非常にリラックスして
親しく言葉を交わすことができました。
 事前にコメントが用意されていたのですが、教皇様はこれは後から読めば分かると
「何か話したいことはないか。」と、まず聞かれるという姿勢をとられました。それ
で、日本の司教団はいろいろなことを話し、これから各省庁に行って話そうと思った
ことを、直接、教皇様に伝えたのですね。私もひとつの使命をもっていて、実は福島
の原発事故の被災者とこれをレポートしていたジャーナリストの手紙を預かって、こ
れを届けて欲しいと。チャンスがあれば渡そうと。でも、それは難しいから福音宣教
省長官に渡すのと2部を用意していきました。そういった自由な雰囲気のもとで手紙
の中について説明したところ、教皇様は原発や世界中の科学技術についての懸念を述
べました。
 教皇様はその中でいろいろなことを話されました。特に印象深くおっしゃっておら
れたのは、信徒発見150年に関して長い迫害の中で信仰を守り通した、司祭がいな
い中で自分たちで 組織を作って、そして教えを正確に保たれていた。ですから、あ
の当時の教会はすぐに復帰することができると。それは、浦上の信徒ばかりでなく各
地の信徒が伝えていって、どんどん復帰する村が増えてきたのです。非常にたくさん
の方々が信仰を守り続けてきました。教皇様は信徒の信仰のセンスというような言い
方で、司祭がいなくても信徒が直接洗礼の導きをうけて、そしてそれを守り続けるこ
とができる。当時は宣教は出来ませんから守るのが精一杯だったのですが、村の中で
信徒を鍛え続けた、その力はどこにあるのか?日本にはこのような素晴らしい力があ
るのだ、世界に模範になる力があるのだと、おっしゃっていました。
 そして、福音宣教省に行ったときは、最初に長官から30分以上の長い訓話をいた
だきました。その中で面白かったのは信徒に関すること。もっと司祭が信徒を信頼す
るように。司祭にはない現場に生きている信徒の信仰のセンス。これを大事にするこ
と。これは教皇様の「福音の喜び」にもありました。まさに新しい福音宣教の力は信
徒の中にある。司祭は信徒を管理するのではなくて、信徒の救いのセンスに信頼し
て、もっとそれを呼び起こすようにと言われました。
  実は昨年ですが、教区のアド・リミナに向けた教区ビジョンを出さなければならな
かったのですが、あまりの忙しさに、昨年の年頭司牧書簡「信徒中心の教会」をベー
スに送りました。そうしましたら、私がそこに書いた同じことを強調していたので
す。自分のをそのまま読んでいるかのごとく(笑い)。本当に私の言いたかったこと
ですね。
 教皇様も福音宣教省の長官も信徒の力、信仰の凄さ、一人ひとりが宣教者であるこ
と、その自覚をもっている、キリストを証しして行っていただきたいということで
す。そして、ここにも神父様方がたくさんおられますが、その信徒に信頼して、教会
での活動を委ねて、そういう姿勢であって欲しいということです。このように教皇様
がおっしゃっていたことをお伝えしたいと思います。
  私たちの教会もいろいろ困難な状況はありますが、司祭が少なくなっている中で、
しかし司祭、修道者、信徒がひとつになって新しい宣教をどのように進めていったら
良いのか、今年は札幌教区が東北から独立して100年の記念の時にあたって、4月
からそれを意識していきます。新たなる第2世紀に向けて私たちが、この北海道の地
に神の国を伝えることができるように、皆さんの祈り、協力をお願いいたします。