今日、聖堂には溢れんばかりに、300人以上の方が復活祭ミサに与られ、共に主の復活を祝いました。
昨夜の復活徹夜祭では、お二人の方が洗礼を、お一人が初聖体を受けられましたが、私たちも皆、使徒パウロが「キリストと共に死ぬ」と説明された洗礼の、約束の更新を行いました。御復活ミサの後は、カテドラルホールに移り、昨日の復活徹夜祭で洗礼を受けられたIさんとAさん、初聖体を受けられたOさんと、改めて御復活の喜びとを共にしました。そして、一足早く共同体に加わられていたOさん、新しく共同体加わって下さったIさんAさんと共に、新しい共同体を作って行ける事に感謝をしました。
所で、昨夜は、復活徹夜祭の後で皆既月食を観た方が大勢居られたと思います。当地でも、札幌テレビ塔の上に薄らと赤銅色に染まった皆既月食を観る事が出来ました。皆既月食は2~3年毎に観られるようですが、復活徹夜祭と皆既月食が重なったのは何十年振りでしょうか?毎年、当たり前のように復活祭を迎えますが、今年の復活祭は今年だけの復活祭です、Iさんと、Aさんが共同体に入って下さった復活祭は今年だけです。今年の復活祭では、今を、今の信仰を、今の共同体を大切にすることに改めて思いを強くし、私たちに信仰の大切さを教えて下さった、キリシタン時代から続く多くの先達への感謝を新たにしました。
<後藤神父様のお説教概要です>
『キリストの復活おめでとうございます。
この1年の歩みは新しい教会での仕事、色々な意味で戸惑いや、新しい出来事、沢山の行事を通して色々な経験をして来ました。この聖週間、特に聖なる3日間は地主司教様、勝谷司教様と、3人の共同司式の形で行った典礼も、私にとっては新しい経験でした。また、遅い時間にもかかわらず、待者として奉仕して下さった子供たちの姿が、私にとってはとても大きな喜びであり、今日は、私には特別な復活祭の朝でした。
イエスが十字架に架かるまでの道行を見つめ、拭い様のない心の不安と、イエスが死んでしまったという寂しさ、自分たちの力で救う事が出来なかった弟子たち、そしてイエスの裁きは残忍に人目に晒す十字架の死という結果になりました。
イエスの死を現実にして、不安に過ごした弟子たち。マリア様を始め多くの婦人たち、すぐにでも遺体を引き取りたくても、キリスト者への軋轢を考えての戸惑い。思い切った行動に出る事が出来ず、墓の石を開けられるか考えながらも、じっとしていられない婦人たち。今日の福音、2000年前の聖書の中にも力強い女性の姿が描かれています。残念ながらそこに男性たちの姿は見られません。昔も今も女性は強いと思います。墓に着くと、石は既に取り除かれていて、イエスの復活を想像できない戸惑う婦人たちの姿が描かれています。遺体が無い事を弟子たちに伝え、そして漸く男性が現れます。ペトロは遺体が無い事を自分の目で確認して信じた、でも見て信じたのはイエスの復活ではなく、出来事そのものを信じたのです。イエスが死者の中から復活したことを理解するのにはもう少し時間が必要でした。
このことは私たちと非常に共通します。私たちも出来事に驚いても、この世の出来事としか考えられない事があります、この地上の事にのみ心が奪われる事があります。
パウロは「キリストが神の右の座についておられます、上にあるものに心をとめ、地上のものに心を引かれないようにしなさい」という言葉を残されました。私たちは現実を大事にして、心を上に向けず、この世に心を向けて思い煩う事があります。でも、大切なことは神に心を向けること、というのがパウロの諭し、戒めなのです。
弟子たちが帰った後、イエスと出会って新しい命の道を歩き始めたマグダラのマリアに主があらわれます。マグダラのマリアはイエスの愛によって救われた一人の女性でした。イエスと出会って洗礼によって主と結ばれた私たちも新しい生き方に向かっています。一切の苦難と、死の彼方には復活の永遠の命が待っているということを、今日あらためて心の中に留めたいと思います。この世界には様々な苦しみ、悲しみといった大きな壁が私たちの前に立ちはだかっていることがあります。でも、私たちが目指すのは、この世のその場所だけではなく、そこを通り過ぎて神の永遠の命の世界に招かれていることを忘れてはならないと思います。今日はその希望を新たにして、新しい出発を決心したいと思います。私たち教会共同体に新しい兄弟を迎えて、私たちの教会だけでなく、広く日本の教会が世界の教会にも目を向けて、祈りを奉げられる、そういう一人ひとりになれればと願っています。』
「復活の主日」アルバム