先週から今週の福音で語られる弟子たちの姿をとおして、私たちの信仰について黙想してみましょう。
後藤神父様のお説教の一部をご紹介します。
『昨日、伊達のカルメル会聖テレジア修道院で、創設者である聖テレジア生誕500年の記念ミサが行われたので行ってきました。聖テレジアは、幼くして帰天した小テレジアと大テレジアがおりますが、修道院を設立したのは後者の聖人になります。
さて、主の復活をお祝いしてから、二回目の主日を迎えています。
先週は、弟子の一人であるトマスが不在の時にイエスが現れたというお話でしたが、今日の福音と同じように、その時もイエスが現れたとき、弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と語りかけています。このイエスの挨拶の言葉は、弟子たちが不安におののくなかで、弟子たちの心を落ち着かせ、励ます言葉でもあったと感じます。
弟子たちはイエスが現れた時、恐れおののき亡霊を見ているのだと思った、とルカは復活の出来事を記しています。先週のヨハネの福音書においても、彼らは戸に鍵を掛けて部屋に篭っていたと記されており、イエスが亡くなったことによって落ち着かない状態が続いていたということがわかります。先週から今週の福音を読んでいくと、既に一度、弟子たちはイエスの復活した姿を見ており、声も掛けられていたにも関わらず、再び現れた時には恐れおののき亡霊を見ているかのように、まだまだ疑いの心が晴れていない弟子たちの様子が記されています。ですから、疑ったのはトマスだけではなく、どの弟子たちにもそうした不安があったのだと思います。
そのことを考えてみると、私たちの心の中にも、そういう思いがきっとまだまだ残されているのではないかと思います。復活した主が自分の目の前に現れたら、私たちは一番最初に何を考えるだろうか?そんなことを私は自分なりに黙想します。自分の信仰はどこまで、復活の主を信じて、神の心を受けられる状態になっているのだろうか。
エマオの弟子たちもまさに、同じようでした。旅の途中、どのようにして自分達が見知らぬ人と出会い、話をしていたにも関わらず、復活の主だとは見抜けず、ずっと時間を過ごしてしまった。でも自分達は、長い時間を過ごす中で、私たちが出会った人は復活したイエスだと気付いたという、そのことを他の弟子たちに報告していたのです。それは今の私たちの典礼であるミサを象徴するイエスの最後の晩さんの時に示された姿、言葉を聞いたときに初めて、復活した主が自分達の目の前にいるということに気付いたということでした。そして、気付いた瞬間、イエスの姿は見えなくなった、と聖書は記しています。
このエマオの弟子たちもまた、主である先生であるイエスが十字架にかけられて死んでしまったと落胆し、弟子たちの元から離れエマオへの旅を続けていたのです。憔悴し、もうイエスとは離れてしまったという気持ちでいたと思います。イエスの死によって、この二人の弟子の失望もまた、あまりにも大きかったのだと思います。ですから、今出会った人が復活の主イエスであることに気付くまでには時間が必要でした。それほど心が鈍くなっていた。心の鈍さというのは、トマスの心と同じ状態を聖書では表現しています。それは疑う心、信じることが出来ない心を、心の鈍さと表現しているようです。
信じるものの心は、落胆し、失望し、沈んだ心になることではなく、内から燃えていくという心でなければならない、と聖書では読み取れます。ですから、私たちが神を信じる、イエスを信じるという心の状態は暗い心ではなく、もっと明るく、希望に満ちて生きる心を持たなければならないと思います。
神を信じるなら、イエスを信じるなら、顔を下に向けるだけではなく、しっかりと顔を上へ向けて、希望を持って、生きられるはず、そういう力を神様は私たちに下さっているはず、私たちはその力をつかみ取っていないがために、不安になったり、信じられなかったり、希望が湧き上がって来なかったり、という状態になるということかもしれません。』