『昨年の復活祭は函館で迎えましたが、江差教会も担当していましたので、函館で復活の主日ミサが終わると、一時間ほど車で走り江差へ向かいました。昨年の今頃も車での道すがら道路脇に福寿草が黄色い花を咲かせていました。札幌にいると、なかなかそのような風景にはめぐり合いません。
イエスは復活した後、今日のヨハネの福音をはじめ、4人の福音史家は、それぞれ見聞きしたことに従って復活の朝の出来事を聖書にしたためています。
そして、復活したイエスが、ペトロをはじめ婦人たち、そして他の弟子たちの前にも現れたということを記述しています。
今、目の前に立っている方が、自分達と一緒に過ごしてきたその主イエス・キリストであると、命を父なる神に捧げた方、そしてその死に打ち勝って復活したイエスであるということを、弟子たちはどこまで信じ、受け入れることができたのだろうか?と、そんなことを今日の聖書のみ言葉からも、私たちは黙想することができます。
復活したイエスであることを認め、確信するまでには、弟子たちにとっても少し時間が必要としたようです。そして、なかには復活を疑う弟子たちもいたということが今日のテーマになっています。でも復活後の弟子たちが共に過ごしていた人々の生活は、ずい分と変わっていったという様子が、今日の第一朗読で書かれています。復活を体験した人々が時間の経過と共に変わり、活き活きした様子・活動についてのべられています。この第一朗読でみると、本当に理想的な共同体がつくられていたのだと感じます。
イエスの死の直後、復活したと言われても復活の実感が伴わなかった弟子たちであったけれそ、時間の経過と共に、復活したイエスに出会いイエスの言葉を聞いていくなかで、イエスであることに間違いはないと確信していきます。復活体験から信仰そのものが変わっていきます。そして強い信仰に変えられていきます。聞いていた一言一言が真実であったということを。そして、弟子たちの生活も変わっていったようです。イエスのかつて語られていたみ言葉、そして教えを思い起こしては互いに確認し合うようになります。弟子たちのなかには、そのことを貴重で大切な教えとして、メモ書きする人も現れてきます。こうしたことが聖書を現実のものにすることにつながっていきます。
ただ思い起こすのではなく、ただ確認するだけではなく、弟子たちはそのことを自分達の生活の中で行動で表さなければならないという信仰に変えられていきます。そうした弟子たちのもとには、さらなる人々が集うようになりました。このように次第に弟子たちの共同体も大きく膨らんでいきます。そしてその共同体の中では、兄弟愛が活き活きと活かされるそういう人間関係も生まれていきます。皆一つになって、全てのものを共有し、心も思いまでもが一つになる共同体がつくられたというのが、初代教会のスタートでもありました。イエスが最後の晩さんで制定したパンを裂く儀式は、何よりも喜びと真心をもって、実践していくという流れも生まれました。揺るぎない信仰に基づく彼らの生活はひたすら感謝と平和が満ち溢れる、そういう生き方に変えられていきました。
まさに私たちが目指す神の国は、そこに誕生したかのように、そういう初代教会がつくられようとしていました。
初代教会のなかに実現したこうした共同体の喜びは、私たち現代の教会共同体の中にどこまで生きているでしょうか?そんなことも私たちは、自分達の共同体を省みながら、そして私たち一人一人の信仰を見つめながら、反省するところは反省しながら、私たち教会共同体の新しい出発を考えていければと思います。』