2014年7月20日日曜日

年間第16主日 「毒麦のたとえ」

今日の福音(マタイ13・24-43)は、先週の「種蒔きのたとえ」に引き続いて「毒麦のたとえ」が語られました。

後藤神父様のお説教では
「良い種を蒔いた畑の中に蒔かれた毒麦。毒麦はある程度成長しなければ良い麦と見分けがつきません。早めに悪い麦を抜こうとしては、良い麦さえも抜いてしまうかもしれません。良い麦を一本でも抜いてしまわないように刈り入れまで待つこと、これは一人の犠牲さえも出さないという神様の慈しみと愛、そして忍耐強く私たちを待っていてくださる神様の姿が表されています。」




今年もカルチャーナイトに参加しました

7月18日(金)は教会として8回目のカルチャーナイトに参加しました。

17:30~21:00まで教会を

一般市民の皆様に自由に出入りしていただく

催しで、お向かいのTYhや市民ギャラリーなど

今年も百以上の文化施設、教会などが

参加しています。

北一条教会には約100名の方が入場され

ミサやミニ・コンサート、交流広場で

過ごされました。

ミサには、教会が初めてというご家族や

50年前に当教会で幼児洗礼を受けられた方も参加され、

司式された森田神父様も歓迎のお話をされました。

ミニ・コンサートには今年は童謡を歌う会が加わり

聖歌隊、オルガン演奏とともに楽しいひとときでした。

カテドラルホールには今年も交流広場が設けられ

絵手紙作成に加わる方、喫茶コーナーで談笑される方で

終了時間ぎりぎりまで盛り上がりました。

初めてカルチャーナイトを体験された後藤神父様からは

いろいろ企画のアイデアをいただき、

また、来年に向け、感謝のうちに終了しました。

福音の喜びが多くの市民の皆様にお伝え出来たことを

あらためて感謝し、種々ご尽力いただきました教会員の

皆様にお礼を申し上げます。(担当窓口 宣教養成部・石井)


聖堂でのミサ聖祭


カテドラルホールでの絵手紙作成と展示


聖歌隊による童謡の合唱




2014年7月14日月曜日

年間第15主日 カ障連「ボランティア(サポーター)研修会」

7月13日(日) 藤女子大学でカ障連札幌大会実行委員会主催の
「ボランティア(サポーター)研修会」が行われました。
当教会からも十数名が参加し、場崎神父様の講話に熱心に耳を傾けました。



午前中の講話に続き昼食を挟んで、グループにわかれ分かち合いが行われました。

その後、14時半からは場崎神父様の司式によりミサが行われました。
神父様のお説教では、ミレーの絵画「種を蒔く人」のエピソードを交えながら、蒔かれた種(主の御言葉)が豊かな実を結ばれるよう私たちに語りかけられました。




ともに主の食卓に招かれた私たちが、どのように生きていかなければならないのか、あらためて考えるよい機会となると同時に、カ障連札幌大会に向けて、私たちの心が一つに結ばれるような研修会でした。

2014年7月6日日曜日

年間第14主日

 神の愛、イエスの無限の愛のしるし、御心を讃える「イエスのみこころの月」が終わりました。
また、先週は年に一度の司祭大会を終え、5月にご着任された後藤神父様も一息つかれたのではないかと思われます。
 今日の福音はイエスのみ心の祭日と同じ個所(マタイ11・25-30)が読まれました。
 「重荷を背負う者は、イエスの軛によって安らぎを与えられる。」
「軛」を国語辞典で調べると、①車の轅(ながえ)の前端に渡して、牛馬の頸の後ろにかける横木。
②自由を束縛するもの。「―を逃れる」 と言う説明がありました。「軛」というと旧約の「バビロンの軛」のように②の束縛のイメージが強いのですが、当時のファリサイ派の指導者も「軛」として人々に律法の遵守を求めていました。重荷を負う者には、「律法の遵守を果たせない弱い者」という意味が含まれていて、今の世の中に当てはめると、社会の様々な環境の中で苦しむ人々とも言え、イエスを信じイエスの負いやすい軛による心の憩いが必要な人たちです。
「重荷」を調べてみますと、ギリシャ語では「ポルティオン」とあり、これは「自分に与えられた任務、責任、義務」を表わすそうです。




後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。

10章までは、イエスの宣教に対する人々の反応が描かれていた。
イエスは父である神を、神の愛の恵みを告げ知らせようとしたが、その時代の社会は大変厳しく、傲慢、自惚れ、が蔓延し、名声的な富、社会的な地位を求める社会が横たわっていた。指導者である律法学者や、ファリサイ派の人々により、律法を盾に貧しい人々、苦しむ人々に重荷を負わせる状態が続いていた。
その様な中で、イエスの掟は重くない、愛に満ち、心地良さと開放感を与えるものだった。
重荷を負って苦労している人は、皆、私のところに来なさい、辛い状況の中でイエスの言葉は人々を優しく包み込む。イエスの御心は、神の前に幼子のように素直な人々の心に特に届いて行った。イエスの言葉は人々の心の奥にまで届き、謙虚で耳を傾ける人々、虐げられ、苦しむ人々に救いをもたらした。神により頼み、神に信頼し、素直に心を開くしかない弱い人々に、イエスは救いをもたらす人として受け入れられた。
イエスの御心は私たち一人ひとりが神に信頼し、神と平和を分かち合うこと、私たちの求める安らぎは、イエスの御心を通して与えられる。イエスの学び舎に入ると、そこに私たち一人ひとりの信仰者としての心の安らぎがあるような気がします。私たちの信仰において神を信じ尽くすことが出来たら、私たち誰もが抱えている不安よりも希望が心を満たす。心の片隅に、自分自身を満たす希望が信頼から生まれる。