また、先週は年に一度の司祭大会を終え、5月にご着任された後藤神父様も一息つかれたのではないかと思われます。
今日の福音はイエスのみ心の祭日と同じ個所(マタイ11・25-30)が読まれました。
「重荷を背負う者は、イエスの軛によって安らぎを与えられる。」
「軛」を国語辞典で調べると、①車の轅(ながえ)の前端に渡して、牛馬の頸の後ろにかける横木。
②自由を束縛するもの。「―を逃れる」 と言う説明がありました。「軛」というと旧約の「バビロンの軛」のように②の束縛のイメージが強いのですが、当時のファリサイ派の指導者も「軛」として人々に律法の遵守を求めていました。重荷を負う者には、「律法の遵守を果たせない弱い者」という意味が含まれていて、今の世の中に当てはめると、社会の様々な環境の中で苦しむ人々とも言え、イエスを信じイエスの負いやすい軛による心の憩いが必要な人たちです。
「重荷」を調べてみますと、ギリシャ語では「ポルティオン」とあり、これは「自分に与えられた任務、責任、義務」を表わすそうです。
後藤神父様のお説教の概要をご紹介します。
10章までは、イエスの宣教に対する人々の反応が描かれていた。
イエスは父である神を、神の愛の恵みを告げ知らせようとしたが、その時代の社会は大変厳しく、傲慢、自惚れ、が蔓延し、名声的な富、社会的な地位を求める社会が横たわっていた。指導者である律法学者や、ファリサイ派の人々により、律法を盾に貧しい人々、苦しむ人々に重荷を負わせる状態が続いていた。
その様な中で、イエスの掟は重くない、愛に満ち、心地良さと開放感を与えるものだった。
重荷を負って苦労している人は、皆、私のところに来なさい、辛い状況の中でイエスの言葉は人々を優しく包み込む。イエスの御心は、神の前に幼子のように素直な人々の心に特に届いて行った。イエスの言葉は人々の心の奥にまで届き、謙虚で耳を傾ける人々、虐げられ、苦しむ人々に救いをもたらした。神により頼み、神に信頼し、素直に心を開くしかない弱い人々に、イエスは救いをもたらす人として受け入れられた。
イエスの御心は私たち一人ひとりが神に信頼し、神と平和を分かち合うこと、私たちの求める安らぎは、イエスの御心を通して与えられる。イエスの学び舎に入ると、そこに私たち一人ひとりの信仰者としての心の安らぎがあるような気がします。私たちの信仰において神を信じ尽くすことが出来たら、私たち誰もが抱えている不安よりも希望が心を満たす。心の片隅に、自分自身を満たす希望が信頼から生まれる。