2014年10月26日日曜日

年間第30主日 障がいと共に歩む札幌大会・プレ大会

10月26日(日)藤女子大学で、日本カトリック障害者連絡協議会(カ障連)・札幌大会を来年に控え、プレ大会が開催されました。
150名が参加し、「主の食卓に招かれたものは幸い」をテーマに、講演、分科会、ミサが行われました。北一条教会からは15名の参加がありました。



大会実行委員長の高橋氏、カ障連会長の宮永氏からご挨拶の後、
札幌大会担当司祭 場崎神父様の講演「主の食卓に招かれたものは幸い」がありました。


場崎神父様は次のようなお話をされました。

『私たちは何かにつけ、美しい言葉を口にはするけれど、心の奥底には醜いものもあることを一番良く知っているのではないでしょうか?
過去の歴史を振り返ってみても、人間の欲望やエゴによる所業には枚挙にいとまがありません。
私たちの教会の現実を省みてください、教会の中心が「健康な人」になってませんか?本当に苦しんでいる人たちが入りづらくなってはいないでしょうか?イエスは誰を招くために来たのか、それは病人や罪人たちであったはずです。
人間とは弱くて脆い存在です。厳しい社会の現実の中で、社会から弾かれ切り捨てられようとも神様は決して見捨てることはありません。
ヨハネ福音書9章で、イエスは生まれつきの盲人の男を前にして、因果応報を口にした弟子たちに言った言葉があります。「神の業がこの人に現れるためである」。この聖書のみ言葉を私たちは本当に正しく理解しているでしょうか?病気や障がい者に対して上から目線で、このイエスの言葉を押し付けたり諭してしまっていないでしょうか?大事なことは、その人が自分でみ言葉を消化し、咀嚼していくことなのです。
善いサマリア人のたとえにあるように、私たちに求められているのは、上から目線からの同情ではなく、その人の立場にまで下りて、痛みを共にし、相手の苦しみを自分の苦しみとすることです。』

午後からは、分科会が行われ17グループに分かれ、テーマに沿って分かち合いが行われました。



各分科会で話し合われた内容は、御ミサの中で共同祈願として捧げられました。


来年の本大会に向けて、また、その後の教会共同体に向けて、「手と手を携えてあなたと生きる」という実践の輪が広がっていくことを願います。



2014年10月19日日曜日

年間第29主日

今日は雲一つない快晴でした。
日中の気温はこの時期としては珍しく20℃近くまで上がり、
ぽかぽか陽気とまではいきませんが、過ごしやすい一日でした。

今日のミサはベネディクトハウス館長の新海神父様が、後藤神父様と共に司式されました。


新海神父様のお説教の概要です。
『私は、いつもお説教の際は、テーマを決めてお話しするようにしています。
今日のテーマは、”油注がれたものキリスト”です。油を注がれるとは”神によって特別な使命を授けられること”を意味しますが、旧約の時代では、王や預言者がその対象となっていました。
それでは、イエス様は、いつ、どこで、誰に、油を注がれたのでしょうか?
新約聖書では一箇所だけ、イエスが油を注がれる場面が出てきます。
それは、ヨハネ12章に記されているベタニアでマリアがイエス様の足に高価な香油を塗った出来事です。これによってイエス様は”油を注がれたもの”になったものと思っています。
先週、北26条教会で「おやじの会」が行われました。参加者の平均年齢は70歳代とのことで、これまで教会を支え発展に寄与されきた方々です。
これからの教会を考えるとき、私たちが省みなければならないのは、自分達の子供や孫に”信仰”をきちんと伝えているだろうかということだと思います。
勝谷司教様が中心となって札幌教区の将来像が描かれていますが、今日のみ言葉「神のものは神に返しなさい」ということを心にしっかりと刻みたいと思います。』


主日ミサが終わった午後、秋晴れのもと、午後2時から白石墓地で札幌地区の合同墓参が行われました。
札幌地区の司祭、修道者、信徒など300名程が集まり、後藤神父様の司式により天に召された方々のためにお祈りを捧げました。
今回は、北一条教会が合同墓参の担当教会でした。

写真は事前の会場準備を終えてほっと一息という場面です。








2014年10月12日日曜日

年間第28主日 -婚宴のたとえ-

今日の主日ミサは、勝谷司教様と後藤神父様の共同司式により行われました。
勝谷司教様はこの10月で、司教叙階1周年を迎えます。おめでとうございます。


司教様のお説教の概要をご紹介します。

『今日の福音の箇所(マタイ22・1-14)にある王の婚宴の席とは、言うまでもなく私たちのこの教会を意味しています。
そこには、善人も悪人も皆招かれていました。つまり教会のメンバーとなる人は、決して倫理的に正しい生き方をしている人だけが招かれているのではなく、むしろ弱さ、罪深さで苦しんでいる人たちこそが招かれているというメッセージを感じます。
招かれた客の中にいた婚礼の礼服を着ていないものが放り出されたとありますが、「礼服」とは、王の招きに対してふさわしく応えようとしていないことを表しています。
では、ふさわしく応えるとはどういうことなのか?
ここは解釈が大変難しいところですが、従来の教会では恐らく、招かれたにもかかわらず教会の教える倫理的に従い正しい生き方をしないものは教会から排除される、つまり従来の掟で人を裁くというのが教会の姿勢であるように思います。
しかし、今の教皇フランシスコは、何とかそのような教会の姿勢を脱却させようとして、頻繁にメッセージを送っています。教会の掟によって人を裁くのではなく、むしろその人の持つ痛み悲しみに共感して、私たちはそれに寄り添うようにしなければならないと。
現在、司教会議で議論されている具体的な例としては、離婚して再婚した人の聖体拝領をどうするか、日本では合法ではありませんが同性婚の問題、シングルマザーなどが挙げられます。これらの人たちは教会の掟によって排除され切り捨てられている人たちです。
教皇フランシスコの考え方からするなら、「礼服」を着ないでここにいる人とは誰なのか?、それは「互いに愛し合いなさい」というキリストの招きに対して、愛を身に着けていない人と言い換えることができます。愛とは、赦しと慈しみに満ちた交わりの中に身を置くことを意味しています。
共同体の中での異なる考えや、皆と同じように振舞えない人たち、様々な事情を抱えた人たち、そのような人たちの痛みに寄り添うことが共同体に求められています。』

2014年10月5日日曜日

国際デー(札幌教区)

 今日は国際ミサ、国際バザーが行われました。国際ミサは、9時ミサ(日本語)と12時半ミサ(英語)をジョイントさせたもので、8月31日に続いて今年2回目です。8月31日のミサは北一条教会独自の取組みでしたが、今日の国際ミサは札幌教区の取組です。そして、勿論司教ミサです。例年は9月第4週に開催されていますが、今年は教区司祭黙想会、札幌地区使徒職大会等、種々教区行事の関係で1週間遅れでの開催でした。
 勝谷司教、北一条教会主任司祭の後藤神父、うぇるかむはうす担当の祐川神父が入堂され、栄光の賛歌「GLORY TO GOD」で雄渾な雰囲気に包まれミサが進みました。第1朗読はタガログ語、答唱は日本語、第2朗読は英語、福音は英語と日本語、説教は日本語で、そして共同祈願は8人の母国語で行われました。説教では、旧態依然としている北一条教会への期待を込められたお話もいただきました。勿論、聖堂が様々な国籍を持つ信徒と、北一条教会を始めとする市内の各教会の人たちで埋め尽くされたことは言うまでもありません。
 先週の「世界難民移住移動者の日」に向けて発信されていました、教皇フランシスコのメッセージ
『教会は、あらゆる人々を受け入れ、彼らに福音を告げ知らせる神の民になるよう求められています。すべての人は神の子です。移住者と難民は、問題をもたらす存在ではなく、歓迎され、尊重され、愛されるべき兄弟姉妹であることを認識し、他の人々にも認識してもらう必要があります。彼らは、より開かれた福音的なキリスト教共同体を築くのを助けるために、神の摂理がわたしたちに与えた機会なのです。移住は、新しい福音宣教への可能性を生み出し、過越の神秘のうちに前もって示されている新しい人間をはぐくむ場を広げます。新しい人間にとっては、どんな異国も母国となり、どの母国も異国となるのです。(要約)』
を読み返してみて、
昨日のバザー準備から後片付けまでに参加し、16世紀以来、外国の人たちが日本の教会に齎して下さったものの大きさを振返り、北一条教会が日本人の教会ではなく、この地で社会生活を営む全てのクリスチャンの教会であること、日本人、外国人を問わず様々な環境下で苦しむ人々の拠り所となる教会であることを再確認し、「不易流行」と「ニーバーの祈り」が思い出された一日でした。





勝谷司教様のお説教をご紹介します。
『今日の福音はイスラエルの指導者たちに向けられたものです。
神のブドウ園を任された彼らは、委ねられた使命を果たそうとせず、神から管理を任されたブドウ園を我が物にしてしまおうとします。当時のイスラエルの指導者、長老、祭司たちへの厳しい批判が込められています。今日の福音を現代的に解釈、解説をしますと、神のブドウ園は言うまでもなく全人類、この地球上に住む全ての人のことです。と同時に、私たちが生活するこの社会に対する責任が問われています。では、祭司よ長老という民の指導者たちとは誰でしょうか?司祭、修道士、あるいは政治家でしょうか?ここで言われる彼らは、ブドウ園の収穫を得るために神から管理を託された者たちです。福音書には似たようなたとえ話で、タラントンのたとえ話があります。このたとえ話では、与えられたタレントとは一般的に個人に与えられた才能、環境の意味で解釈されています。
今日のたとえ話では、タレントのたとえ話と組み立ては同じですが、私たち個々人がそれにどう答えられたかが焦点になっています。神から多くの賜を受け、それを用いて世界に奉仕するように言われているのは、一部の個々人や指導者ではなく、神からその使命を受けている全ての信者です。そう考えると、今日の福音は、全てのキリスト者共同体に向けられたものです。
キリスト者共同体がイエスに問われています。即ちこの札幌の地にある私たちのブドウ園は、効果的に福音を伝えているでしょうか?札幌教区は、外国から宣教者が大勢来て、創設され、外国の経済的支援で教会を建てたのが宣教の始まりです。その結果として、日本の信徒たちは常に与えられることが習慣となり、不幸にして、司祭に頼って、司祭に従うメンタリティーが定着してしまいました。そして、宣教師たちが札幌を離れ、経済的支援が無くなった今、そのメンタリティーはそのまま残っています。そのために札幌の信者たちは外に出て行こうとしません。聖職者について言えば、その減少と高齢化のため、彼らは小教区の現状維持で大変忙しくなっています。札幌の小教区の特性は宣教型ではなく現状維持の司牧型になり、福音宣教の力強さが無くなっています。
先だって、ローマで行われた新司教研修会において、アフリカ、インド、東南アジアはとても若い教会だと感じました。特にお隣の韓国は、60歳を過ぎると主任司祭を引退させられ、名誉職が与えられて仕事をします。札幌教区では60代は若手で、若いシスターもいませんが、シスターは若く溌剌とし、歩くスピードも違います。危機感を感じて帰ってきました。
教皇様は、使徒的勧告『福音の喜び』の中で「現状維持に滞ることなく、全ての共同体が司牧的且つ宣教的な改心の道を進むために必要な手段を用いることを期待しています。必要とされるのは常に単なる管理ではありません。地上の全ての地域で『絶えず宣教地区』であることを目指しましょう。」と訴えられ、そして、出向いて行く教会=『The Church which goes forth』、ということを強調されています。私は、札幌教区のキリスト者共同体は「神の国のレストラン」、「旅する教会」「配達する教会」をイメージしていたものだったので共感を覚えて読みました。私は、私たちの教会が必要とされているのは、レストランにいる人への奉仕ではなく、レストラン、教会から外に出て福音を届けること、その使命が信徒に委ねられていことを言い続けて来ました。このイメージの大切なことは、一人ひとりが孤独に努力するのではなく、共同体として働くと言う事です。私たちは福音宣教への新しい挑戦を必要としています。
教皇様は使徒的勧告『福音の喜び』の中で更に以下のように続けられています。「宣教を中心とした司牧では、‘何時もこうして来た’という安易な司牧基準を棄てなければなりません。皆さん、是非自分の共同体の目標や構造、宣教の様式や方法を見直すという、この課題に対して大胆且つ創造的であって下さい。目標を掲げても達成のための適切な手段を共同体が行わなければ、単なる夢に終わってしまうでしょう。この勧告の方針を、惜しみなく、勇気を持って、恐れたり、禁止事項を設けたりせずに適用するよう皆さんに勧めます。」
現実的に札幌の教会で何を大胆に変えるよう求められているのでしょうか?一つのヒントが、今日の国際デーです。札幌の共同体は、教皇様が言う‘何時もこうして来た’にしがみついているように見えます。日本の教会運営は、メンバーのみが加入出来てサービスを受けられる、会費を支払って教会の正会員になれる、サロンに似ています。しかしそれは全くの間違いです。どこの国籍の人でも、長期滞在中の旅行者でも小教区民と見做されます。彼らはキリスト者共同体のメンバーとしての権利と義務を有するのです。それなのに、外国から来ている人、小教区に転入登録をしていない人は何時までも小教区のお客様です。小教区において日本語と英語のミサが行われていることに誰も意見を表しません。旅行者のためのミサは必要かも知れませんが、長期滞在している外国人はこの教会の小教区民です。そして、外国からきている彼らこそ日本の伝統を打ち破るセンスを持っています。
他の教区では、新潟の新庄教会や仙台の大船渡教会の例があります。新庄教会は信徒の9割がフィリピンの信者ですし、大船渡教会は震災に遭い、自分たちの教会に沢山のベトナム人や、フィリピンの人たちが居ることを発見し、その後に外国人が教会メンバーとしてその運営に参加し、世に生き返ったかのような活気に満ち、異なる文化、新しい考え方で小教区に影響を与えています。道東の幾つかの小教区では主日のミサが国際ミサになっています。私が訪問した小教区の雰囲気は、活気に満ち、彼らは典礼の中で其々の役割を持っています。チャレンジすること、変えて行くことに憶病にならないでください。失敗をしてもそこから学んでいけば良いのです。
福音の喜びの中の教皇様の言葉で説教を終わりたい。
「出向いて行きましょう。私は出て行ったことで事故に遭って、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さ故に病んでいる教会より好きです。中心になろうと心配ばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られて閉じ込んだまま死んでしまう教会を私は望みません。外には大勢の飢えた人がいます。そして、イエスは絶えず教えられるのです。あなたが言って食べ物を与えないさい。」』



 ミサの後は、「うぇるかむはうす」が中心となって準備を行ってきた教会中庭での国際バザーです。以前の国際フェスティバルと比較しますと規模は小さくなっていますが、様々な国籍を持つ外国人、市内各教会信徒、カトリック関係諸団体の方々、近隣地域の方々等大勢の参加を得て、今まで以上に盛り上がり、そして参加者の顔もわかるとても素晴らしいバザーでした。





毎年行われている「国際デー」も、いろいろ課題があるようです。司教様の言われていたように、外国人と日本人の垣根が取り払われ、共により良い共同体を築いていけるようにお祈りします。