2014年10月12日日曜日

年間第28主日 -婚宴のたとえ-

今日の主日ミサは、勝谷司教様と後藤神父様の共同司式により行われました。
勝谷司教様はこの10月で、司教叙階1周年を迎えます。おめでとうございます。


司教様のお説教の概要をご紹介します。

『今日の福音の箇所(マタイ22・1-14)にある王の婚宴の席とは、言うまでもなく私たちのこの教会を意味しています。
そこには、善人も悪人も皆招かれていました。つまり教会のメンバーとなる人は、決して倫理的に正しい生き方をしている人だけが招かれているのではなく、むしろ弱さ、罪深さで苦しんでいる人たちこそが招かれているというメッセージを感じます。
招かれた客の中にいた婚礼の礼服を着ていないものが放り出されたとありますが、「礼服」とは、王の招きに対してふさわしく応えようとしていないことを表しています。
では、ふさわしく応えるとはどういうことなのか?
ここは解釈が大変難しいところですが、従来の教会では恐らく、招かれたにもかかわらず教会の教える倫理的に従い正しい生き方をしないものは教会から排除される、つまり従来の掟で人を裁くというのが教会の姿勢であるように思います。
しかし、今の教皇フランシスコは、何とかそのような教会の姿勢を脱却させようとして、頻繁にメッセージを送っています。教会の掟によって人を裁くのではなく、むしろその人の持つ痛み悲しみに共感して、私たちはそれに寄り添うようにしなければならないと。
現在、司教会議で議論されている具体的な例としては、離婚して再婚した人の聖体拝領をどうするか、日本では合法ではありませんが同性婚の問題、シングルマザーなどが挙げられます。これらの人たちは教会の掟によって排除され切り捨てられている人たちです。
教皇フランシスコの考え方からするなら、「礼服」を着ないでここにいる人とは誰なのか?、それは「互いに愛し合いなさい」というキリストの招きに対して、愛を身に着けていない人と言い換えることができます。愛とは、赦しと慈しみに満ちた交わりの中に身を置くことを意味しています。
共同体の中での異なる考えや、皆と同じように振舞えない人たち、様々な事情を抱えた人たち、そのような人たちの痛みに寄り添うことが共同体に求められています。』