勝谷司教、北一条教会主任司祭の後藤神父、うぇるかむはうす担当の祐川神父が入堂され、栄光の賛歌「GLORY TO GOD」で雄渾な雰囲気に包まれミサが進みました。第1朗読はタガログ語、答唱は日本語、第2朗読は英語、福音は英語と日本語、説教は日本語で、そして共同祈願は8人の母国語で行われました。説教では、旧態依然としている北一条教会への期待を込められたお話もいただきました。勿論、聖堂が様々な国籍を持つ信徒と、北一条教会を始めとする市内の各教会の人たちで埋め尽くされたことは言うまでもありません。
先週の「世界難民移住移動者の日」に向けて発信されていました、教皇フランシスコのメッセージ
『教会は、あらゆる人々を受け入れ、彼らに福音を告げ知らせる神の民になるよう求められています。すべての人は神の子です。移住者と難民は、問題をもたらす存在ではなく、歓迎され、尊重され、愛されるべき兄弟姉妹であることを認識し、他の人々にも認識してもらう必要があります。彼らは、より開かれた福音的なキリスト教共同体を築くのを助けるために、神の摂理がわたしたちに与えた機会なのです。移住は、新しい福音宣教への可能性を生み出し、過越の神秘のうちに前もって示されている新しい人間をはぐくむ場を広げます。新しい人間にとっては、どんな異国も母国となり、どの母国も異国となるのです。(要約)』
を読み返してみて、
昨日のバザー準備から後片付けまでに参加し、16世紀以来、外国の人たちが日本の教会に齎して下さったものの大きさを振返り、北一条教会が日本人の教会ではなく、この地で社会生活を営む全てのクリスチャンの教会であること、日本人、外国人を問わず様々な環境下で苦しむ人々の拠り所となる教会であることを再確認し、「不易流行」と「ニーバーの祈り」が思い出された一日でした。
勝谷司教様のお説教をご紹介します。
『今日の福音はイスラエルの指導者たちに向けられたものです。
神のブドウ園を任された彼らは、委ねられた使命を果たそうとせず、神から管理を任されたブドウ園を我が物にしてしまおうとします。当時のイスラエルの指導者、長老、祭司たちへの厳しい批判が込められています。今日の福音を現代的に解釈、解説をしますと、神のブドウ園は言うまでもなく全人類、この地球上に住む全ての人のことです。と同時に、私たちが生活するこの社会に対する責任が問われています。では、祭司よ長老という民の指導者たちとは誰でしょうか?司祭、修道士、あるいは政治家でしょうか?ここで言われる彼らは、ブドウ園の収穫を得るために神から管理を託された者たちです。福音書には似たようなたとえ話で、タラントンのたとえ話があります。このたとえ話では、与えられたタレントとは一般的に個人に与えられた才能、環境の意味で解釈されています。
今日のたとえ話では、タレントのたとえ話と組み立ては同じですが、私たち個々人がそれにどう答えられたかが焦点になっています。神から多くの賜を受け、それを用いて世界に奉仕するように言われているのは、一部の個々人や指導者ではなく、神からその使命を受けている全ての信者です。そう考えると、今日の福音は、全てのキリスト者共同体に向けられたものです。
キリスト者共同体がイエスに問われています。即ちこの札幌の地にある私たちのブドウ園は、効果的に福音を伝えているでしょうか?札幌教区は、外国から宣教者が大勢来て、創設され、外国の経済的支援で教会を建てたのが宣教の始まりです。その結果として、日本の信徒たちは常に与えられることが習慣となり、不幸にして、司祭に頼って、司祭に従うメンタリティーが定着してしまいました。そして、宣教師たちが札幌を離れ、経済的支援が無くなった今、そのメンタリティーはそのまま残っています。そのために札幌の信者たちは外に出て行こうとしません。聖職者について言えば、その減少と高齢化のため、彼らは小教区の現状維持で大変忙しくなっています。札幌の小教区の特性は宣教型ではなく現状維持の司牧型になり、福音宣教の力強さが無くなっています。
先だって、ローマで行われた新司教研修会において、アフリカ、インド、東南アジアはとても若い教会だと感じました。特にお隣の韓国は、60歳を過ぎると主任司祭を引退させられ、名誉職が与えられて仕事をします。札幌教区では60代は若手で、若いシスターもいませんが、シスターは若く溌剌とし、歩くスピードも違います。危機感を感じて帰ってきました。
教皇様は、使徒的勧告『福音の喜び』の中で「現状維持に滞ることなく、全ての共同体が司牧的且つ宣教的な改心の道を進むために必要な手段を用いることを期待しています。必要とされるのは常に単なる管理ではありません。地上の全ての地域で『絶えず宣教地区』であることを目指しましょう。」と訴えられ、そして、出向いて行く教会=『The Church which goes forth』、ということを強調されています。私は、札幌教区のキリスト者共同体は「神の国のレストラン」、「旅する教会」「配達する教会」をイメージしていたものだったので共感を覚えて読みました。私は、私たちの教会が必要とされているのは、レストランにいる人への奉仕ではなく、レストラン、教会から外に出て福音を届けること、その使命が信徒に委ねられていことを言い続けて来ました。このイメージの大切なことは、一人ひとりが孤独に努力するのではなく、共同体として働くと言う事です。私たちは福音宣教への新しい挑戦を必要としています。
教皇様は使徒的勧告『福音の喜び』の中で更に以下のように続けられています。「宣教を中心とした司牧では、‘何時もこうして来た’という安易な司牧基準を棄てなければなりません。皆さん、是非自分の共同体の目標や構造、宣教の様式や方法を見直すという、この課題に対して大胆且つ創造的であって下さい。目標を掲げても達成のための適切な手段を共同体が行わなければ、単なる夢に終わってしまうでしょう。この勧告の方針を、惜しみなく、勇気を持って、恐れたり、禁止事項を設けたりせずに適用するよう皆さんに勧めます。」
現実的に札幌の教会で何を大胆に変えるよう求められているのでしょうか?一つのヒントが、今日の国際デーです。札幌の共同体は、教皇様が言う‘何時もこうして来た’にしがみついているように見えます。日本の教会運営は、メンバーのみが加入出来てサービスを受けられる、会費を支払って教会の正会員になれる、サロンに似ています。しかしそれは全くの間違いです。どこの国籍の人でも、長期滞在中の旅行者でも小教区民と見做されます。彼らはキリスト者共同体のメンバーとしての権利と義務を有するのです。それなのに、外国から来ている人、小教区に転入登録をしていない人は何時までも小教区のお客様です。小教区において日本語と英語のミサが行われていることに誰も意見を表しません。旅行者のためのミサは必要かも知れませんが、長期滞在している外国人はこの教会の小教区民です。そして、外国からきている彼らこそ日本の伝統を打ち破るセンスを持っています。
他の教区では、新潟の新庄教会や仙台の大船渡教会の例があります。新庄教会は信徒の9割がフィリピンの信者ですし、大船渡教会は震災に遭い、自分たちの教会に沢山のベトナム人や、フィリピンの人たちが居ることを発見し、その後に外国人が教会メンバーとしてその運営に参加し、世に生き返ったかのような活気に満ち、異なる文化、新しい考え方で小教区に影響を与えています。道東の幾つかの小教区では主日のミサが国際ミサになっています。私が訪問した小教区の雰囲気は、活気に満ち、彼らは典礼の中で其々の役割を持っています。チャレンジすること、変えて行くことに憶病にならないでください。失敗をしてもそこから学んでいけば良いのです。
福音の喜びの中の教皇様の言葉で説教を終わりたい。
「出向いて行きましょう。私は出て行ったことで事故に遭って、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さ故に病んでいる教会より好きです。中心になろうと心配ばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られて閉じ込んだまま死んでしまう教会を私は望みません。外には大勢の飢えた人がいます。そして、イエスは絶えず教えられるのです。あなたが言って食べ物を与えないさい。」』
ミサの後は、「うぇるかむはうす」が中心となって準備を行ってきた教会中庭での国際バザーです。以前の国際フェスティバルと比較しますと規模は小さくなっていますが、様々な国籍を持つ外国人、市内各教会信徒、カトリック関係諸団体の方々、近隣地域の方々等大勢の参加を得て、今まで以上に盛り上がり、そして参加者の顔もわかるとても素晴らしいバザーでした。
毎年行われている「国際デー」も、いろいろ課題があるようです。司教様の言われていたように、外国人と日本人の垣根が取り払われ、共により良い共同体を築いていけるようにお祈りします。