2016年2月28日日曜日

四旬節第3主日

今日の福音では、四旬節を歩む私たちへ神は悔い改めと回心を呼びかけています。
神は私たちの回心を忍耐強く待っていて下さっています。


先週の四旬節第2主日から、御ミサの後、信心業として「十字架の道行」が始まりました。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『四旬節の半ば、どのような日々を過ごしているのでしょうか?
初代教会の信者さんの信仰と、現代を生きる私たちの信仰とは違いあるのだろうか、ということを少し思い巡らしてみました。
四旬節という季節に限って考えてみると、初代教会の人たちの復活祭に向かう思いとして、断食、奉仕、苦行をとおして信仰が表れていたというというのが文章の中に時々出てきます。今の私たちも昔の習慣に則って大事にその習慣を守っている方も多くおられると思いますが、昔の人と比べて違いがあるのだろうかと思い巡らします。昔の人と比べると現代ではその意識は薄いのではないかとも感じますが、皆さんはいかがでしょうか?
初代教会の信者は永遠の命を願い、復活のキリストをとおして、尽きることのない栄光の姿を示したキリストに対して、信仰において全てをかけて歩んでいた、そのような文章がたくさん目に触れてきます。きっとそれは初代教会の人たちは、イエスの死と復活を私たち以上に身近に感じていたということかもしれません。2000年が経過している私たちにとって、その意識は少し薄れてしまっているのかもしれない、そのようなことも感じます。
イエスは弟子たちにご自身の受難と死について、そして三日目に復活することを知らせましたが、その時の弟子たちはイエスが離されたその受難と死について、どこまで理解できたでしょうか。ほとんどその真意を理解できずにイエスに付き従っていたと思います。弟子たちはイエスから伝えられたことを十分に呑み込めないままに、イエスの時は刻一刻と過ぎていくことになります。
今日の私たちに語られた福音は、そのことをまた私たちに知らせているような気がします。イエスの呼びかけは回心であり、熱を帯びたその切実な言葉は私たちにも届くような気がします。今日聞いたこのみ言葉の中にもイエス自身の言葉で、悔い改めることの重要さが話されています。
四旬節を歩んでいる私たちにとっての悔い改めは、どうなっているのでしょうか。毎日、私たちはそのイエスと共に歩んでいるのでしょうか。イエスの受難と復活を私たちの捧げる祈りの中で思い起こしているでしょうか。
イエスは悔い改めを私たちに告げています。神の前では今も昔も悪や罪の問題が私たちを苦しませ悩ませます。でも神の憐れみによってのみ私たちは赦されることを知っています。罪びとは赦されることなくして心の平和を持つことはできません。悔い改めや回心が大切であるということは私たち一人一人も知っていることです。でもその一歩を踏み出すことをできないことは私たち自身にもあろうかと思います。四旬節はその意味において、私たちの信仰をよく見つめ考えさせられる季節でもあります。
灰の水曜日から始まった四旬節の歩み、18日目を迎えていますが、四旬節というのは40という数値に深く関わってきたというのも皆さんもご存知です。この40という数値を表す言葉が四旬節と言われるようになりました。40というのは旧約聖書の中でも新約聖書の中でもたくさん象徴的に使われています。その一つには四旬節第一主日で読まれたイエスの荒れ野での40日の出来事があります。旧約時代での40という数値は出エジプト記の中で、エジプトを脱出したイスラエルの民の40年間におよぶ荒れ野の旅がありました。ノアの洪水の雨の期間もまた40という数値でした。さらにモーセがシナイ山に籠って断食した期間も40でした。旧約の出来事には試練と苦難の時を40という数値で表されています。その40という試練と苦難をとおして、神の憐れみを体験してきたのがイスラエルの民でもあったということです。初代教会の人たちはそうした聖書の出来事を象徴的に表す40という数値を心に留め、そして祈りの中に組み込まれて四旬節という中で断食をし苦行するということが生じていったようです。それは少しでもイエスの断食と祈りに習おうという初代教会の信者の信仰に深く結ばれたものでした。四旬節のキリスト者の断食と祈りによって、私たち一人一人もまたキリストに模られていくことを願うそのような精神が深く信仰の中に息づいていたということだと思います。主の過ぎ越しを一年に一度祝う盛大な復活祭の準備として、主の受難と死を偲び断食するという習慣は、このようにして初代教会の時から始まっていたというのが教会の四旬節でもあります。このような初代教会の人たちの信仰を思い起こすときに、私たち現代のキリスト者はどうなんだろうということをお話ししました。
今日私たちに語られたみ言葉の中では、二つの出来事が語られました。イエスは災難と罪との因果関係を否定しながらも悔い改めること回心することの必要を説かれています。悔い改めなければ滅びると言いながらも、神は私たちの回心を忍耐強く待っていて下さる方だと話されます。今日の二つ目の出来事の中では、いちじくのたとえ話が話されました。実が結ばないから刈り取ってしまいなさい、そのように話されましたが、三年待ってくださいという神のいつくしみが示されます。それはただ待ってくださるということではなく、悔い改めの実を結べということでもあるようです。待つことが神様の愛であり、いつくしみであり、憐れみでもあるならば、その神様のいつくしみに対し私たちは、応えていかなければならないでしょう。悔い改めない人を神は厳しく罰しますが、同時に忍耐強く私たちに回心を呼びかけ待ってくださる神、その神の呼びかけに私たちは応えるものでありたいと思います。
放蕩息子のたとえにおいては、この放蕩息子は、天に対して、そして父に対して罪を犯したという告白を行い、そして父の赦しを乞うため帰ってきます。この告白の中には、今私たちが悔い改めのときに大切な要素が示されていると思います。私たちがゆるしの秘跡を受けるときに、神様に心は向かうが、人に対してあまり思い巡らずに赦しをもらうおうとすることの方が多いような気がしています。もちろん神に対して罪を犯したということははっきりとあるでしょうが、私たちの罪は人間関係の中で生まれているものも多いかと思います。神との和解だけではなく、人との和解もとても大切なことだと思います。私たちが悔い改めて新しく出発するとき、そのことをもう一度考え黙想し、新しい出発に向けて行きたいと思います。
いつくしみの特別聖年を今歩んでいますが、教皇様の呼びかけとして、「この四旬節を、神のいつくしみを祝い、また実践するための集中期間として、深く味わいながら過ごすことができますように」。神のいつくしみを単に祝うだけではなくて、それを実践するための期間として過ごして欲しいというのが、教皇様の呼びかけです。
試練の時ほど神の愛を知ることができるとよく言われます。四旬節を機会に神のやさしい悔い改めの呼びかけに応え、神の導きに全てを委ねて、私たちの四旬節を生きる決心を改めてしたいと思います。』

2016年2月21日日曜日

四旬節第2主日

今日の福音では、イエスの変容の出来事が語られました。私たちも神の栄光に変えられることを願いながら、日々イエスとの出会いをもって、神の慈しみを深く味わい四旬節の歩みを大切にしていきたいと思います。


今日の後藤神父様のお説教をご紹介します。

『今日は四旬節の第2の主日を迎えて、聖書のお話は変容の物語が私たちに告げられています。先週は東京から幸田司教様が見えられてミサを捧げてくださいました。そして午後からは平和講演のお話をうかがうことができました。

この四旬節、私たちはどのように歩んでいるのでしょうか?
先週の聖書のテーマは、毎年四旬節第一主日に三つの福音書で共通して読まれるイエスの荒れ野での40日間の出来事でした。今日の第2主日も主の変容の場面が毎年読まれることになっています。
今私たちはみ言葉に耳を傾けて、イエスと一緒に山に登る弟子たちの姿をどのように思い浮かべていたでしょうか。ルカの福音書をたどってみると、山に登る前、弟子たちにはある大きな出来事がありました。それが今日の箇所に繋がっているのですが、その出来事とは、イエスが弟子たちに聞いた「あなた方は私を何者だと言うのか」、するとペトロが「神からのメシアです」と答え、ここにペトロの信仰告白がありました。イエスはペトロの信仰告白を聞いて、自分がこの後苦しみを受け殺されることになる、そして死んで三日目に復活するということを弟子たちに話されました。その話を聞いたとき、弟子たちはどのようにこの言葉を受け止めたのか、それは聖書の中では具体的に語られていません。十分に理解したとはとても思えない出来事がその後、聖書の中で語られています。しかしイエスは自分が死んで復活するということを弟子たちに告げたとき、このことは誰にも話さないようにと注意をしています。きっとそれは公にするにはまだ、時間が必要なことだったのかもしれません。そしてイエスはこの後、弟子たちの3人を連れて山に登ったというのが今日のお話に繋がっているのです。
イエスに魅了された弟子たち、イエスの話に驚いた弟子たち、しかしイエスの教えを聞き流し、イエスに従いイエスへの信仰をだんだんと築いていった弟子たち。一方では、この人と一緒にいれば、安心だということもあったのかもしれません。この人は今自分たちの住んでいる社会を変えてくださる方、革命を起こしてくださる方、そういう不思議な力を持っているリーダーでもある、そんな思いで付き従っていた弟子たちがいたかもしれません。しかし、そのような弟子たちでありましたが、彼らの期待を裏切るような、自分は死んでそして復活する。その死に方も普通ではないということも知らされます。イエスは改めて弟子たちに言いました。「それでも私に付いてきたいものは、自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい。」
ご自分の死、そして復活、十字架の死、受難を告げた後、そのことを話されて、弟子たちは従おうとしていた。受難の苦しみに耐える姿、群衆に蔑まれ罵声をかけられ、唾さえ吐き掛けられた惨めなイエスの姿を、このとき弟子たちは想像できることではなかったと思います。でもイエスに付き従っていこうとしている弟子たちの姿は見えています。イエスがこのとき弟子たちに語られた言葉、「それでも私に付いてきたいものは、自分を捨て日々自分の十字架を背負って私に従いなさい。」この言葉をそうした背景で、そうした経緯で聞くならば、この上ない重みを持った言葉になっています。イエスは3人の弟子を選んで山に登りましたが、聖書では詳しく調べて福音を書いたというルカの言葉がここにはっきりと示されます。それは「祈るために山に登られた」と書き記されています。山に登る目的に一つは祈るためであった。イエスは十字架にかかり自分の命を捧げなければならない、そこに十字架の秘儀がありますが、その十字架の秘儀を理解するためには、祈ることが必要だったのかもしれません。また弟子として、自分の将来がかかったうえで、さらに従っていくのだとしたら、祈ることがまた必要であるということを、山に連れていきながらそれを実感させていったのかもしれません。きっとイエスは身をもって祈ることの大切さを弟子たちと共に、行動しながら教えられたのではないでしょうか。でも現実は山に登るということは簡単なことではないはずです。十分な水も持っていくことができない時代でした。そのような中で身も心もへとへとになり、疲れが絶頂に達し、眠気に襲われたと聖書は記しています。まさに祈るどころではないそんな状況の中で、不思議な出来事に遭遇する弟子たちでした。
山に登る一歩一歩は、その苦しみとの激しい戦いの道でもあったはず、その苦しみを背負うということは、自己放棄でもあったはず。でも自分の肉体的な弱さ精神的な弱さの中で、イエスの栄光の姿を見せつけられた時は、弱さの中にあって栄光を弟子たちは見つめる、そうした素晴らしい時を与えられたということです。イエスはこの出来事を立ち会わせることによって、彼らの心のうちに信仰の土台を築かれたのかなあと私は考えてしまいます。何度も何度も叱られながらもイエスに付き従ったペトロの姿は皆さんもご存知です。失敗を繰り返しながら、イエスへの信仰を深めていく弟子たち、ペトロを代表して聖書の中でいろいろな場面で私たちは見つめることができます。
私たちは今日、聖書の変容のみ言葉に触れたとき、私たちはどのように感じ受け止めたでしょう。イエスのように私たちも主の栄光に与り天の国で変容できるようにと、そんな祈りの言葉をもって聞いていたでしょうか。イエスの十字架が一人一人の罪を贖うことを私たちはすでに知っています。イエスは私たち一人一人を導き、それを可能にすることを心に留めてこのみ言葉を聞いたでしょうか。

「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」
変容の時、天から声がしたと語られました。そのみ言葉を聞きながら、私たちもまた聞かせてくださいと祈ったでしょうか?
救いに切り離すことができない十字架があります。そしてキリストの十字架は私たちの信仰そのものでもあると思います。
私たちにとっての十字架、それはどのように見えているでしょうか。どのような重さを私たちに感じさせているでしょうか。
四旬節に入りました。み言葉を黙想するとともに、四旬節の歩みの中で、教会の長い伝統で培われた十字架の道行も大切にされます。道行の祈りを祈る人々はこの四旬節たくさんおられると思います。信仰が揺らぐような私たちの毎日、試練の中にあっても主によって十字架の前にしっかりと立ち続けることができるよう、そうありたいと思います。
今日の第2朗読の中でパウロも私たちに呼びかけます。「このように主によってしっかりと立ちなさい。」。主に対する信頼は、私たちが試練や誘惑の中にあっても戦いの中にあっても私たちを強くしてくれる力をもたらしてくださる。
四旬節の歩みの中でもう一度私たちは、私たち一人一人に与えられた十字架を見つめながら、主にますます近づいていきたいと思います。

旧約時代にはモーセの変容の話もありました。モーセがシナイ山に登って、神から十戒を授けられたとき、イエスの変容の姿を彷彿とさせるようなそういう出来事があったと旧約聖書は告げています。でもモーセよりも遥かに偉大なる変容の姿が今日語られました。これこそ私の最愛の子であるという父からの宣言もありました。変容するイエスの姿は私たちに希望をもたらすものでもあると思います。パウロも述べています「わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」
この場面を体験し感動したペトロは、後に燃えるような信仰に成長していきます。そして最後は勇ましく十字架に逆さ釣りにされて亡くなったと伝えられています。
四旬節の初めに変容の物語が私たちに語られる理由は、一人一人が犯した罪を悔い改め、愛の秘儀に与ることによって、私たちも変容の秘儀に参与することができるのだということを、希望を持って語られているからだと思います。
私たちも神の栄光に変えられることを願いながら、日々イエスとの出会いをもって、神の慈しみを深く味わい四旬節の歩みを大切にしていきたいと思います。』

2016年2月14日日曜日

四旬節第1主日

四旬節の最初の主日を迎えました。
教会はこの期間に、洗礼志願者の最終準備をします。
私たちの共同体にも、復活祭に向けて洗礼を受ける準備をしている方がおられます。
共同体の新しいメンバーとして迎えられることができるようお祈りしたいと思います。

今日のミサは、この日の午後に行われる平和講演会のために来札された東京大司教区 ヤコブ幸田和生司教様、2月6日に神学校をめでたく卒業された佐藤謙一助祭、そして主任司祭の後藤神父様の共同司式により行われました。





幸田司教様のプロフィールについては下記をご覧ください。

東京大司教区公式HP
http://tokyo.catholic.jp/auxiliary_bishop/18100/
幸田司教ブログ
http://nativitas.blog130.fc2.com/

札幌教区からの神学生として6年間、日本カトリック神学院で学んでこられたパウロ佐藤謙一助祭が、2月6日に無事ご卒業されました。
そして、いよいよ4月29日(祝)に当教会で司祭叙階式を迎えられることになります。


佐藤助祭による福音朗読

この日のミサでの幸田司教様のお説教をご紹介します。

『皆さんは「浦河ベテルの家」をご存知ですか?日高の浦河町にある、社会福祉法人そしていろいろな仕事をしているわけですが、元々、浦河の日赤病院のところの精神科に閉鎖病棟があって、そこにいた統合失調症などの精神障害の方々を病院から出して、地域の中で生活できるというように、そういうことを始めて、今では100人くらいの当事者の方が街の中の何軒かの家に住んでいる生活の共同体であり、働く場としての共同体であり、ケアの共同体であるという、そういう場所だそうです。
  当事者研究ということで全国的に世界的にもかなり有名になっているところだそうです。実は2月11日の祝日の日でしたが、東京でキリスト教の社会福祉の集まりがあって、そこにベテルの家の皆さん、向谷地生良さん、スタッフの方、当事者の方が来てくださってお話をお聞きするチャンスがありました。私は本を読んで少しは知っていましたので、何となくベテルの家を理想的な共同体として描いていたところがありました。しかし、そのときのお話によるとベテルの家の歩みは失敗の連続、一人ひとりの当事者の方々も苦労の連続、そういうようなお話しでした。精神科の閉鎖病棟からやっと出て来た人たちが共同生活をしていくわけですから、そんな簡単にいくわけはないですね。でも、その中で精一杯生きていますし、何か生き生きとしている。失敗があってはいけないんだとか、苦労があってはいけないんだという、今の世の中の風潮、常識を覆すような話しで、私には興味深かったのです。

 今日の福音を読みながらその話を思い出して、人生というものはそもそも荒野ようなものではないかなと思いました。ものごとがうまくいって何の苦労もなく何の病気もなく、それがあるべき人生だとしたら、私たちの人生はそのようなものとはずいぶん違うような気がします。
むしろ人生は荒野ではないか。そういうことで見えてくる世界があるような気がします。
 イスラエルの民は40年間、荒野で旅をしたと言われています。旧約聖書に伝えられていますけれど、紀元前13世紀のころです。エジプトの奴隷状態から、モーセを指導者として神からそこから救い出されて、自由になったイスラエルの民でしたが、彼らを待ち受けていたのは荒野での苦しい生活でした。水も食べ物のもなく、さそりがいたり毒蛇やいたりする危険に満ちた、ぎりぎりの生活がそこにはありました。イスラエルの民はモーセと神に、何度も不平を言ったと伝えられています。
 神様はその民を見捨てずに、不平を言う民に岩から水を湧き出させ、天からマナという不思議な食べ物をふらせ、ずっと民を養い育ててくれた。それが荒野の民の物語です。
  そしてその荒野の旅の中で「シナイ契約」という神様との特別の契約。ぎりぎりの生活ですが。その中でも神様との生活、人と人とが支え合って生きている、それが荒野の生活といっていいかもしれません。苦労があってはいけませんではなく、苦労があるからこそ神様の助けがいつも必要だし、苦労があるからこそお互いに助け合っていくこと、それが私たちの歩みでもあるはずです。

 今日の第一朗読は申命記26章でした。申命記というのは神様が与えると約束された土地を目も前にして民に語って聞かせる遺言のような説教です。モーセはもう約束の地にはいることは出来ない。だけど民はこれから約束の地に入っていって定住生活を始めるでしょう。でも、その時になっても決して神様のことは忘れてはいけないよと、一生懸命語るのが申命記です。
そして、その中で今日の26章は面白いのですが、その地に入って最初に取れた作物を神様に捧げなさいと言っています。この荒野でのぎりぎりの生活の中では、いつもいつも本当にぎりぎりで、いつも神様の助けなしには食べものを得ることも、水を得ることも出来なかった。その中ではいつも神様のことを意識しなくてはならなかった。与えられるものはすべて神様からのものと感じながら生きてきた。ところが、定住して農耕生活を始めれば、作物は自然に手に入る、それをどんどん蓄えいく、人間の力で何でも出来るとおごるようになる。でもそうではないんだ。本当はすべて神様から与えられているんだと思い出すために、取れた作物の初物を神様に捧げるようにしなさいと命じるのがこの箇所です。
  いつの間にか何でも人間の力で出来るのが当たり前と思ったときに、人間は神様との繋がりを忘れてしまう。人と人とが支え合って生きているということも忘れてしまう。自分の力で何でも出来ると思ったところに、そういう問題が起こってきます。私たちは根本には、荒野というのか苦労があり、失敗があり、大変なことがあって、だからこそ神様に支えられなければ、人と人とが支え合わなければ生きていけない、その部分をもって生きているんだということ、それを思い出すことが私たちの四旬節のテーマだと思うのです。

 イエス様の人生も荒野の旅だった、荒野の連続だったと言えると思います。今日はイエス様の活動の始めに40日間、荒野で悪魔から誘惑を受けた場面でしたが、でもイエス様の誘惑、悪魔との戦いは、決してこの40日のことばかりではなく、ずっと続いていく歩みだったでしょう。十字架の死に至るまで、イエス様は誘惑と戦い続けたと言えると思います。
 イエス様はそうやって最後の最後まで誘惑と戦い続けて歩んでいかれますが、そのご自分と同じように、荒野を歩む民に、弟子達に与えた祈りが「主の祈り」だと思います。主の祈りというのは、何となく物事がうまくいっていて、毎日順調にいっている、そういう時の祈りというよりも、本当に苦しくて、荒野の中での祈りではないかと思います。
 前半、神様についての祈りがあります。「御名が聖とされますように、御国が来ますように、御旨が行われますように」。本当にその苦しい中で神様との繋がりを思う祈りです。そして後半はまずパンを願います。パンは私たちが生きていく上でのシンボルです。私たちの「日ごとの糧」と訳してありますが、原文は「パン」という言葉で、本当に必要なものは全部神様が与えてくださるものだと思いながら願う。そして、与えられたものに感謝する祈りだと思います。
そして、「私たちの罪をおゆるしください」と祈ります。罪というのは、根本的には神様との断絶、隣人との断絶といったら良いでしょう。本当に神様との繋がりを見失ってしまうこと、
隣人との繋がりを見失って自分さえ良ければと思うこと、根本的な神の問題です。その中で神様との繋がりを取り戻していくこと、隣人との繋がりを取り戻していくこと、それを主の祈りの中で祈ります。そして、最後は「私たちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」。
今日の福音の根本にあるように、誘惑の根本は私たちを神様から引き離そうとする力です。
そこからお救いください、何とか神様から離れることのないように守ってください。それが主の祈りの最後の祈りです。

  私たちこの四旬節を迎えて、イエス様とともに、普段順調に毎日過ごしておられる方もおられるかもしれませんが、もしかしたらどこかで毎日つらい思いをしながら過ごしているかもしれない。その荒野のような日々をイエス様と共に歩んでいって、私たちがその中でこそ、神様の助けをしっかり受け取って、神様の助けを祈り続けしっかりと受け取って、そして人と人とが何とか支え合って歩んでいく。その恵みを今日のミサを通して心から祈っていきたいと思います。』

今日は、教会の”雪割り”の日でもありました。”雪割り”とは軒下や屋根などに溜まった雪を排雪する作業のことです。今年は例年よりかなり雪が少なかったのですが、20名程が1時間ほど汗を流しました。




雪割り後は、D地区の皆様が心を込めて用意してくださった豚汁をいただきました。
心も体も温まりました!


午後2時からは、幸田司教様による「平和講演会」が行われました。




2016年2月13日土曜日

2月11日(木) 司祭叙階ダイヤモンド祝記念ミサ

2月11日(木・祝日)午前11時から、手稲・花川教会協力司祭 ヨゼフ 久野勉神父様と、札幌地区協力司祭 ジュール・ロー神父様の司祭叙階60周年記念ミサがカトリック北一条教会で行われました。


ミサは、勝谷司教様と司祭23名による共同司式により執り行われ、300名ほどの信徒が集まり、両神父様の叙階60周年を祝いました。





ミサでの勝谷司教様のお説教の一部をご紹介します。

福音朗読 ヨハネ 15章9-17節

『「互いに愛し合いなさい」
今、読まれた福音は、イエスがいつも弟子たちに語られた言葉です。
同様に、まず私たちは優れた能力があるから選ばれたのではなく、キリストによって呼ばれ、そして選ばれ派遣されて私たちは司祭職を務めているわけです。
イエス様のこの地上における活動とは何であるのか?
病人の上に手を置いて癒やし、悪霊を追放しなさい。全ての人の罪を赦しなさい。そのような形で弟子たちを派遣しておられます。
今日はルルドのマリア様の記念日であり、そしてこの日は毎年「病者の日」と定められています。イエス様がなさった病気を治すという業は、ただ病気を治すということが目的ではなく、その奥にあるものを私たちに指し示すためのしるしとして、意義があるわけです。もし、病気の癒しそのものが目的であるとするならば、全ての人は何らかの病で、必ず死を迎えなければならないわけであり、私たちは死に対して無力であるという現実を突き付けられ、敗北のうちに失意のうちにこの世を去ることになります。
イエス様が示したのは、この病気においてその中で苦しんでいる人にこそ、主が共におられ、そしてその病気の先にある永遠の命、たとえ死を迎えることがあったとしても、神はあなたと共におられ、永遠の住まいに招いておられるということです。私たちはこのしるしの意味を忘れてはいけません。
同様に悪霊の追放ということも聖書には何度も出てきますが、多くの場合、この悪霊というものは、病気であったり、あるいはその人自身の弱さや罪深さから陥っていく、荒んだ生活状態であったり、あるいはその人本人に責任はなくても社会的に蔑まれ罪に追いやられ、この世において小さくされている人たち、その人たちは悪霊憑きと呼ばれ、軽蔑され人々の交わりから排除されていったわけです。ですから悪霊を追放せよという意味は、そのような状況から解放させるということです。
病気の癒しも悪霊の追放も別な言い方をするならば、神があなたと共におられる、あなたは決して一人ではなく、あなたを愛しておられる方がいるのだ、そのことを私たちのこの活動をとおして示すことができるならば、たとえイエス様のように一瞬にして病気を癒すことをできなくても、たとえ長い時間がかかってもその人の快復のために寄り添っていくなら、たとえ死に至ることがあったにせよ、しかしその人が人間の関わりの中でそこで神の愛を見出し、確信し永遠の命に希望をおいていくならば、それは本質的にイエス様の行った奇跡的な治癒だとかあるいは悪霊の追放の業と同じ業を私たちは行っていることになるのです。
私たちが召されているのは、私たちの活動をとおして、主があなたと共におられる、そしてその神は、決して裁きの神ではなく、常にいつくしみの眼差しを向けておられる神なのだ、そのことを私たちは伝える使命を持ってここに集まっているわけです。

今日、お祝いするお二人の神父様も、60年の長きにわたって、この使命を生きてこられました。
ロー神父様は1956年2月2日、そして久野神父様は1955年12月21日に叙階され、この年は私の生まれた年ですが、本当に途方もない長い期間、司祭として生きてきたということに心から敬意を表したいと思います。』


御ミサの後、隣の聖園こども家で祝賀会が行われ、お二人にお祝いの言葉が贈られました。











2016年2月9日火曜日

年間第5主日

先週末から雪祭りが開催され、今年も大勢の外国人旅行者が来札されているようです。
ニュースでは旅行者、特に中国からの旅行者のスタイルが「モノからコト」に変わってきていると流れていました。ツアーから個人旅行へ、爆買から体験に変化しているそうです。
比較は適切ではありませんが、私たちの教会も変化の過程にあります。札幌教区が大きく変わろうとしている時に、私たちの教会だけが現状維持に汲々とする様な事が無い様にしっかりと「変化」を時のしるしとして進んで行きたいものです。


<後藤神父様の説教概要>
今日のみ言葉は「自分を頼みとして自己中心に生きて罪をおかした者も、神のいつくしみとみ言葉で救われる人は幸い」と語られています。そしてペトロの召し出しの話に繋がって行きます。イエスの言葉を受け入れ難いペトロと、言葉に従ったペトロが語られます。群衆はイエスから神の言葉を聞こうとして押し寄せますが、ペトロはどんな態度をとっていたと思いますか?
今日の福音に至る前の聖書では、ペトロの姑が熱を出している話があります。人々はペトロの姑が熱を出している事を知りイエスを招き入れます。イエスが不思議な出来事を行った時、ある人々は拒絶しましたが、ある人々は驚いてイエスに付き従いました。ペトロはどの様にその出来事を見ていたのでしょうか?今日の福音では、ペトロは漁師としての経験を十分に積んだ自分の生き方に拘っています。魚が一杯になり網が破れそうになった時、自分を思い、自分の心に気づき「罪を犯しました」と告白します。イエスは「あなたを、人間を繋ぐものにしよう」と招き入れます。今日の話は単純ですが人の心の機微が豊かに想像できます。私たちにも同じような事があるのではないでしょうか?イエスの御言葉は人智を超えた神の力を私たちに示します。その力に触れたとき、私たちの信仰はまた変わるように思います。私たちが心を頑なにしているならば、そうした瞬間があっても気がつかずに過ぎて行きます。ペトロを神の前に恐れ慄かせた現実、その瞬間からペトロは大きく変えられました。
私たちはどんな信仰を生きているでしょうか?どの様な形でみ言葉を大切にしているでしょうか?素直な気持ちみ言葉を受け入れ、み言葉に生きていますか?み言葉を信じ、み言葉に従う事によって私たちは神に触れることができ、私たちの信仰生活は更に新しくなります。
神の力を知らず、神の言葉を聞いても頭だけで考えていては心も変わりようがありません。
第1朗読で、天使が「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と賛美しているように、私たちも心からみ言葉に賛美を奉げたいと思います。