教会はこの期間に、洗礼志願者の最終準備をします。
私たちの共同体にも、復活祭に向けて洗礼を受ける準備をしている方がおられます。
共同体の新しいメンバーとして迎えられることができるようお祈りしたいと思います。
今日のミサは、この日の午後に行われる平和講演会のために来札された東京大司教区 ヤコブ幸田和生司教様、2月6日に神学校をめでたく卒業された佐藤謙一助祭、そして主任司祭の後藤神父様の共同司式により行われました。
東京大司教区公式HP
http://tokyo.catholic.jp/auxiliary_bishop/18100/
幸田司教ブログ
http://nativitas.blog130.fc2.com/
札幌教区からの神学生として6年間、日本カトリック神学院で学んでこられたパウロ佐藤謙一助祭が、2月6日に無事ご卒業されました。
そして、いよいよ4月29日(祝)に当教会で司祭叙階式を迎えられることになります。
佐藤助祭による福音朗読
この日のミサでの幸田司教様のお説教をご紹介します。
『皆さんは「浦河ベテルの家」をご存知ですか?日高の浦河町にある、社会福祉法人そしていろいろな仕事をしているわけですが、元々、浦河の日赤病院のところの精神科に閉鎖病棟があって、そこにいた統合失調症などの精神障害の方々を病院から出して、地域の中で生活できるというように、そういうことを始めて、今では100人くらいの当事者の方が街の中の何軒かの家に住んでいる生活の共同体であり、働く場としての共同体であり、ケアの共同体であるという、そういう場所だそうです。
当事者研究ということで全国的に世界的にもかなり有名になっているところだそうです。実は2月11日の祝日の日でしたが、東京でキリスト教の社会福祉の集まりがあって、そこにベテルの家の皆さん、向谷地生良さん、スタッフの方、当事者の方が来てくださってお話をお聞きするチャンスがありました。私は本を読んで少しは知っていましたので、何となくベテルの家を理想的な共同体として描いていたところがありました。しかし、そのときのお話によるとベテルの家の歩みは失敗の連続、一人ひとりの当事者の方々も苦労の連続、そういうようなお話しでした。精神科の閉鎖病棟からやっと出て来た人たちが共同生活をしていくわけですから、そんな簡単にいくわけはないですね。でも、その中で精一杯生きていますし、何か生き生きとしている。失敗があってはいけないんだとか、苦労があってはいけないんだという、今の世の中の風潮、常識を覆すような話しで、私には興味深かったのです。
今日の福音を読みながらその話を思い出して、人生というものはそもそも荒野ようなものではないかなと思いました。ものごとがうまくいって何の苦労もなく何の病気もなく、それがあるべき人生だとしたら、私たちの人生はそのようなものとはずいぶん違うような気がします。
むしろ人生は荒野ではないか。そういうことで見えてくる世界があるような気がします。
イスラエルの民は40年間、荒野で旅をしたと言われています。旧約聖書に伝えられていますけれど、紀元前13世紀のころです。エジプトの奴隷状態から、モーセを指導者として神からそこから救い出されて、自由になったイスラエルの民でしたが、彼らを待ち受けていたのは荒野での苦しい生活でした。水も食べ物のもなく、さそりがいたり毒蛇やいたりする危険に満ちた、ぎりぎりの生活がそこにはありました。イスラエルの民はモーセと神に、何度も不平を言ったと伝えられています。
神様はその民を見捨てずに、不平を言う民に岩から水を湧き出させ、天からマナという不思議な食べ物をふらせ、ずっと民を養い育ててくれた。それが荒野の民の物語です。
そしてその荒野の旅の中で「シナイ契約」という神様との特別の契約。ぎりぎりの生活ですが。その中でも神様との生活、人と人とが支え合って生きている、それが荒野の生活といっていいかもしれません。苦労があってはいけませんではなく、苦労があるからこそ神様の助けがいつも必要だし、苦労があるからこそお互いに助け合っていくこと、それが私たちの歩みでもあるはずです。
今日の第一朗読は申命記26章でした。申命記というのは神様が与えると約束された土地を目も前にして民に語って聞かせる遺言のような説教です。モーセはもう約束の地にはいることは出来ない。だけど民はこれから約束の地に入っていって定住生活を始めるでしょう。でも、その時になっても決して神様のことは忘れてはいけないよと、一生懸命語るのが申命記です。
そして、その中で今日の26章は面白いのですが、その地に入って最初に取れた作物を神様に捧げなさいと言っています。この荒野でのぎりぎりの生活の中では、いつもいつも本当にぎりぎりで、いつも神様の助けなしには食べものを得ることも、水を得ることも出来なかった。その中ではいつも神様のことを意識しなくてはならなかった。与えられるものはすべて神様からのものと感じながら生きてきた。ところが、定住して農耕生活を始めれば、作物は自然に手に入る、それをどんどん蓄えいく、人間の力で何でも出来るとおごるようになる。でもそうではないんだ。本当はすべて神様から与えられているんだと思い出すために、取れた作物の初物を神様に捧げるようにしなさいと命じるのがこの箇所です。
いつの間にか何でも人間の力で出来るのが当たり前と思ったときに、人間は神様との繋がりを忘れてしまう。人と人とが支え合って生きているということも忘れてしまう。自分の力で何でも出来ると思ったところに、そういう問題が起こってきます。私たちは根本には、荒野というのか苦労があり、失敗があり、大変なことがあって、だからこそ神様に支えられなければ、人と人とが支え合わなければ生きていけない、その部分をもって生きているんだということ、それを思い出すことが私たちの四旬節のテーマだと思うのです。
イエス様の人生も荒野の旅だった、荒野の連続だったと言えると思います。今日はイエス様の活動の始めに40日間、荒野で悪魔から誘惑を受けた場面でしたが、でもイエス様の誘惑、悪魔との戦いは、決してこの40日のことばかりではなく、ずっと続いていく歩みだったでしょう。十字架の死に至るまで、イエス様は誘惑と戦い続けたと言えると思います。
イエス様はそうやって最後の最後まで誘惑と戦い続けて歩んでいかれますが、そのご自分と同じように、荒野を歩む民に、弟子達に与えた祈りが「主の祈り」だと思います。主の祈りというのは、何となく物事がうまくいっていて、毎日順調にいっている、そういう時の祈りというよりも、本当に苦しくて、荒野の中での祈りではないかと思います。
前半、神様についての祈りがあります。「御名が聖とされますように、御国が来ますように、御旨が行われますように」。本当にその苦しい中で神様との繋がりを思う祈りです。そして後半はまずパンを願います。パンは私たちが生きていく上でのシンボルです。私たちの「日ごとの糧」と訳してありますが、原文は「パン」という言葉で、本当に必要なものは全部神様が与えてくださるものだと思いながら願う。そして、与えられたものに感謝する祈りだと思います。
そして、「私たちの罪をおゆるしください」と祈ります。罪というのは、根本的には神様との断絶、隣人との断絶といったら良いでしょう。本当に神様との繋がりを見失ってしまうこと、
隣人との繋がりを見失って自分さえ良ければと思うこと、根本的な神の問題です。その中で神様との繋がりを取り戻していくこと、隣人との繋がりを取り戻していくこと、それを主の祈りの中で祈ります。そして、最後は「私たちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」。
今日の福音の根本にあるように、誘惑の根本は私たちを神様から引き離そうとする力です。
そこからお救いください、何とか神様から離れることのないように守ってください。それが主の祈りの最後の祈りです。
私たちこの四旬節を迎えて、イエス様とともに、普段順調に毎日過ごしておられる方もおられるかもしれませんが、もしかしたらどこかで毎日つらい思いをしながら過ごしているかもしれない。その荒野のような日々をイエス様と共に歩んでいって、私たちがその中でこそ、神様の助けをしっかり受け取って、神様の助けを祈り続けしっかりと受け取って、そして人と人とが何とか支え合って歩んでいく。その恵みを今日のミサを通して心から祈っていきたいと思います。』
今日は、教会の”雪割り”の日でもありました。”雪割り”とは軒下や屋根などに溜まった雪を排雪する作業のことです。今年は例年よりかなり雪が少なかったのですが、20名程が1時間ほど汗を流しました。
雪割り後は、D地区の皆様が心を込めて用意してくださった豚汁をいただきました。
心も体も温まりました!
午後2時からは、幸田司教様による「平和講演会」が行われました。