2016年2月28日日曜日

四旬節第3主日

今日の福音では、四旬節を歩む私たちへ神は悔い改めと回心を呼びかけています。
神は私たちの回心を忍耐強く待っていて下さっています。


先週の四旬節第2主日から、御ミサの後、信心業として「十字架の道行」が始まりました。



後藤神父様のお説教をご紹介します。

『四旬節の半ば、どのような日々を過ごしているのでしょうか?
初代教会の信者さんの信仰と、現代を生きる私たちの信仰とは違いあるのだろうか、ということを少し思い巡らしてみました。
四旬節という季節に限って考えてみると、初代教会の人たちの復活祭に向かう思いとして、断食、奉仕、苦行をとおして信仰が表れていたというというのが文章の中に時々出てきます。今の私たちも昔の習慣に則って大事にその習慣を守っている方も多くおられると思いますが、昔の人と比べて違いがあるのだろうかと思い巡らします。昔の人と比べると現代ではその意識は薄いのではないかとも感じますが、皆さんはいかがでしょうか?
初代教会の信者は永遠の命を願い、復活のキリストをとおして、尽きることのない栄光の姿を示したキリストに対して、信仰において全てをかけて歩んでいた、そのような文章がたくさん目に触れてきます。きっとそれは初代教会の人たちは、イエスの死と復活を私たち以上に身近に感じていたということかもしれません。2000年が経過している私たちにとって、その意識は少し薄れてしまっているのかもしれない、そのようなことも感じます。
イエスは弟子たちにご自身の受難と死について、そして三日目に復活することを知らせましたが、その時の弟子たちはイエスが離されたその受難と死について、どこまで理解できたでしょうか。ほとんどその真意を理解できずにイエスに付き従っていたと思います。弟子たちはイエスから伝えられたことを十分に呑み込めないままに、イエスの時は刻一刻と過ぎていくことになります。
今日の私たちに語られた福音は、そのことをまた私たちに知らせているような気がします。イエスの呼びかけは回心であり、熱を帯びたその切実な言葉は私たちにも届くような気がします。今日聞いたこのみ言葉の中にもイエス自身の言葉で、悔い改めることの重要さが話されています。
四旬節を歩んでいる私たちにとっての悔い改めは、どうなっているのでしょうか。毎日、私たちはそのイエスと共に歩んでいるのでしょうか。イエスの受難と復活を私たちの捧げる祈りの中で思い起こしているでしょうか。
イエスは悔い改めを私たちに告げています。神の前では今も昔も悪や罪の問題が私たちを苦しませ悩ませます。でも神の憐れみによってのみ私たちは赦されることを知っています。罪びとは赦されることなくして心の平和を持つことはできません。悔い改めや回心が大切であるということは私たち一人一人も知っていることです。でもその一歩を踏み出すことをできないことは私たち自身にもあろうかと思います。四旬節はその意味において、私たちの信仰をよく見つめ考えさせられる季節でもあります。
灰の水曜日から始まった四旬節の歩み、18日目を迎えていますが、四旬節というのは40という数値に深く関わってきたというのも皆さんもご存知です。この40という数値を表す言葉が四旬節と言われるようになりました。40というのは旧約聖書の中でも新約聖書の中でもたくさん象徴的に使われています。その一つには四旬節第一主日で読まれたイエスの荒れ野での40日の出来事があります。旧約時代での40という数値は出エジプト記の中で、エジプトを脱出したイスラエルの民の40年間におよぶ荒れ野の旅がありました。ノアの洪水の雨の期間もまた40という数値でした。さらにモーセがシナイ山に籠って断食した期間も40でした。旧約の出来事には試練と苦難の時を40という数値で表されています。その40という試練と苦難をとおして、神の憐れみを体験してきたのがイスラエルの民でもあったということです。初代教会の人たちはそうした聖書の出来事を象徴的に表す40という数値を心に留め、そして祈りの中に組み込まれて四旬節という中で断食をし苦行するということが生じていったようです。それは少しでもイエスの断食と祈りに習おうという初代教会の信者の信仰に深く結ばれたものでした。四旬節のキリスト者の断食と祈りによって、私たち一人一人もまたキリストに模られていくことを願うそのような精神が深く信仰の中に息づいていたということだと思います。主の過ぎ越しを一年に一度祝う盛大な復活祭の準備として、主の受難と死を偲び断食するという習慣は、このようにして初代教会の時から始まっていたというのが教会の四旬節でもあります。このような初代教会の人たちの信仰を思い起こすときに、私たち現代のキリスト者はどうなんだろうということをお話ししました。
今日私たちに語られたみ言葉の中では、二つの出来事が語られました。イエスは災難と罪との因果関係を否定しながらも悔い改めること回心することの必要を説かれています。悔い改めなければ滅びると言いながらも、神は私たちの回心を忍耐強く待っていて下さる方だと話されます。今日の二つ目の出来事の中では、いちじくのたとえ話が話されました。実が結ばないから刈り取ってしまいなさい、そのように話されましたが、三年待ってくださいという神のいつくしみが示されます。それはただ待ってくださるということではなく、悔い改めの実を結べということでもあるようです。待つことが神様の愛であり、いつくしみであり、憐れみでもあるならば、その神様のいつくしみに対し私たちは、応えていかなければならないでしょう。悔い改めない人を神は厳しく罰しますが、同時に忍耐強く私たちに回心を呼びかけ待ってくださる神、その神の呼びかけに私たちは応えるものでありたいと思います。
放蕩息子のたとえにおいては、この放蕩息子は、天に対して、そして父に対して罪を犯したという告白を行い、そして父の赦しを乞うため帰ってきます。この告白の中には、今私たちが悔い改めのときに大切な要素が示されていると思います。私たちがゆるしの秘跡を受けるときに、神様に心は向かうが、人に対してあまり思い巡らずに赦しをもらうおうとすることの方が多いような気がしています。もちろん神に対して罪を犯したということははっきりとあるでしょうが、私たちの罪は人間関係の中で生まれているものも多いかと思います。神との和解だけではなく、人との和解もとても大切なことだと思います。私たちが悔い改めて新しく出発するとき、そのことをもう一度考え黙想し、新しい出発に向けて行きたいと思います。
いつくしみの特別聖年を今歩んでいますが、教皇様の呼びかけとして、「この四旬節を、神のいつくしみを祝い、また実践するための集中期間として、深く味わいながら過ごすことができますように」。神のいつくしみを単に祝うだけではなくて、それを実践するための期間として過ごして欲しいというのが、教皇様の呼びかけです。
試練の時ほど神の愛を知ることができるとよく言われます。四旬節を機会に神のやさしい悔い改めの呼びかけに応え、神の導きに全てを委ねて、私たちの四旬節を生きる決心を改めてしたいと思います。』