2016年3月9日水曜日

四旬節第4主日 -放蕩息子のたとえ-

「カナシミ節ヲスゴシテマス」
杉本ゆり達がプリジャン神父に「ワタシノ旨アナタトオナジ」と、語った後に続く言葉です。
四旬節第3主日を2日後に控えた1865年の3月17日金曜日、浦上の人たちが恐々と南蛮寺に向かい、勇気を振り絞って発した3つの言葉の一つが四旬節でした。
櫻谷委員長が何時も口にされる「共同体と地区制度の活性化」について、キリシタンのコンフラリアを通して思いを馳せながら、復活祭までを大切に過ごしたいと思います。




<後藤神父様の説教概要>
私たちはどの様に四旬節を過ごしていますか?
今日のみ言葉は、40年の旅の末にカナンの地を前にして過越祭を祝った話、流離の末に約束の地で新しい生活の第1歩が記されている第1朗読から、放蕩息子の例えに繋がっています。
神のいつくしみの計画に中にあった40年の旅と同じように、自分の所から離れて遠い国へと旅立った息子を父は一日千秋の思いで待ち続け、遂に死んでいたかのような息子を生き返らせました。父親は息子の過ちを問うことなく迎えに出ます、その姿は、まさに父の愛、神様の愛に結びつけて考えられます。この父と息子の姿を通して、私たちは自分と神様を見つめることになります。
第2朗読では神様との和解がテーマになっていますが、ゆるしの秘跡も和解が中心です。
もう一度喩えを味わいましょう。前半は、自ら走り寄って行った父親の愛が息子との距離を埋め、赦しを与え抱擁するという感動的な姿を私たちに示します。後半では、父親に対する非難が兄の口から飛び出します。兄には一緒に喜ばずに反発心しかありません。兄を霊的にみると、神からの私たちへの問いかけです。
兄は父親といつも一緒に居ましたが、その心は遠く父から離れていました。私たちはいつも神のそばにいようとしていますか?私たちは一生懸命に祈り、ミサにも来ていますが、心は本当に神の近くにいますか?いつも一緒にいる生活、信仰を持っていても本当に心はどこにあるか、その事をこの喩えを通して神様が問いかけています。
神はどんなに時間がかかろうとも、悔い改めて帰ってくるのを待っています。私たちは、神が何時でも待っていると言う事を忘れて、祈りにおいても自分の都合でしか考えられず、神をみることをしません。私たちは、四旬節の間、悔い改めが求められています、和解する機会を神はひたすら待ち望んでいます。罪を犯して神の愛を受け入れるに値しないと思ってしまう私たちですが、それでも神様は私たち見守って下さっています。それが、今、私たちが歩んでいる四旬節です。
弟子たち、ファリサイ派、罪人、群衆の一人、それぞれの立場に自分をおいて耳を傾けると、其々の形でイエスの話を霊的に感じることができます。そして、私たちの現実の姿を重ねると胸が熱くなり、心が痛みます