十字架の顕示
司祭が「見よ、キリストの十字架 世の救い」と唱え
会衆が「ともに あがめたたえよう」とこたえます。
十字架の礼拝
仮祭壇から御聖体が運ばれ聖体拝領が行われました
後藤神父様のお説教をご紹介します。
『主の受難を記念する聖金曜日を私たちは迎えています。(この後、聖地エルサレム献金について紹介。)
キリストの受難と死を思い起こす今日の祭儀。最後の晩餐の翌日にかけての出来事、今、私たちは受難の朗読を聴きました。伝統的な典礼によると、キリストが息を引き取ったとされる午後の3時頃に、今日のこの「受難の典礼」は行われることが基本となっています。教会は2千年の間、イエスが弟子たちと食事をした、最後の晩餐で記念をしたミサを行ってきています。 でも、今日の金曜日だけは教会の伝統に則って、「主の過ぎ越しを記念するミサ」ではなく、「受難の祭儀」として私たちはイエス・キリストの受難と死、それを偲びながら 断食を守る日としてきています。
皆様も毎年、この日を迎えながら、何度もお話しを聴いてきていると思います。記録によると、4世紀末頃のエルサレムでは、木曜日から続く徹夜の祈りの後で、キリストが十字架に架けられた場所に立つ教会に人々は集まったそうです。そして、その場所でイエスの受難の出来事の中から、ピラトによる尋問による箇所が、今日の朗読でもありましたが、それを聴き礼拝するという形が、今日(こんにち)典礼の中に組み込まれたと言われます。その最初はエルサレムに巡礼した熱心なエテリナという女性信者が、巡礼で体験した思い出を書き残したことによって、そうした典礼が段々と形づくられたと言われています。当時、教会で行われていた典礼がある一人の女性の巡礼者の記憶を辿って書かれ残されてきたのものがひとつとなって、今日(こんにち)の典礼に反映されているということです。
救いの歴史におけるキリストの受難と死の意味をかみしめなければなりません。復活の希望のうちに十字架の勝利を私たちは賛美しています。朗読された受難の箇所は、ヨハネの福音ですが、最後の晩餐で弟子たちといっしょに過ごし、やがて来たるべき自分の死の後で、迫害が起こることも予見され、イエス・キリストは自分が従えてきた12人の弟子たちを前に、互いに仕え合うことの大切さをイエス自ら弟子たちの足を洗うことで、その姿を示されました。仕えられるため、仕えるため、私たちはどちらを大切にしているでしょうか。イエスの姿を思い起こしながら、仕えることの大切さをもう一度私たちは心に刻んでおきたいと思います。
そのときイエスは弟子の一人が裏切ること、やがて自分が裁かれ、十字架へと歩まなければばならないことを知りながらも、父なる神が遣わされた自分の使命を思い起こし、心に刻み、暗い闇と閉ざされた道を弟子たちとともに進んでいくことになりました。聖書はこの受難の物語を誰もが書いています。マタイの福音ではそのときの様子を「私の魂は死ぬばかりに悲しんでいる。」(38節、直訳)と、こういう言葉で表現しています。ルカの福音では「父よ思し召しならばこの杯を私から遠ざけてください。しかし、私の意のままではなく、あなたの思し召しのままに。」(42節)こうイエスは神に向かって叫んだことを記しています。自分が今、辿らなければならない、それは自分にとって大切な使命であるとともに、その使命の中にすべての人を父なる神のもとに導いていく思いもまたあったんだと思います。全身から流れる冷たい汗、イエスの祈る姿もそこに重なってきます。神の子であるイエスでさえ、その瞬間は私たち人間と同じ苦しみに襲われたと思います。そして、すべての人々の罪が今、イエスの上にのし掛かっているということを私たちも感じたいと思います。
私たち人間の過ち、数え切れないほどの罪がそこから見えてきます。邪淫の罪、怒り、貪欲、裏切り、邪推、偽証。きりがないくらい過ちの言葉が私たちの心の中にも浮かんでくるようです。そうした数え切れないほどの罪がイエスを襲い、被さっていく。私たちの罪も含めてイエスはそれを受けとめてくださる。聖書の朗読の中に「バラバを赦しキリストを十字架につけよ。」と叫んだ群衆は、イエスをあざ笑い、わめくばかり。それでもイエスは彼らに愛を注いで「父よ、彼らをお赦しください。」と祈っています。
受難の祭儀を記念するこの聖なる金曜日。イエスの十字架の苦しみと死を深く黙想しながら、限りないイエスの愛を、そして、イエスの慈しみを考え、私たち一人ひとりが負わなければならない自分の十字架を背負いながら、イエスの後に従っていけるように共に祈り続けたいと思います。』